ROCKHURRAH WROTE:
去年から始めたこのシリーズ記事も案外進まず、まだ4回しか書いてない。しかも最後に書いてからもう数ヶ月も経ってしまってる事にさっき気付いたよ。ROCKHURRAHが主に書いてるシリーズ記事でこの手のパターンが多いな。
国名や都市名がついた歌は結構あるから簡単に書けると思ってたんだけど、意外と困難で・・・という事もすでに前回のTransit04で書いてるね。
そもそも英語力皆無のROCKHURRAHが曲の内容について語る事など出来るはずもなく、理解なんかしてないまま、いいかげんに書いてるのが現状だから、困難なのは間違いない。それでも何かは書くけどね。
個人的に今年の夏はお盆休みらしきものもほとんどなくて、夏を全くエンジョイしてなかったなあ。海外も日本の避暑地も全く無縁で、休みといっても最小の行動力(暑さが苦手のため)。
今回はそんなROCKHURRAHが選んだ「日本特集」にしてみよう。
前にブライアン・フェリーの事を書いた時に
東京は外国人にとっても憧れの場所なのか、ここをテーマにした歌は実に数多く存在する。
と書いた通り、タイトルにJAPANとかTOKYOと付いた曲は過去から現在まで数多くあるのは間違いない。しかし日本の事を歌った海外のミュージシャン達はどれだけ日本を理解してるのだろうか?
今はネットを調べれば何でも情報は出てくる時代だけど、それでも結構な数の勘違い外人はいるに違いない。特集するのは今ではなく80年代くらいに活躍した人々ばかりだから、その頃は余計に情報もなく、勘違い外人はもっと多かったはず。
しかし自分の胸に手を当てて考えるまでもなく、海外のメジャーな都市でもそこの文化に精通して完璧に理解している日本人は少ない。
その辺はまあ、おあいこって事で話を進めよう。
さて、音楽に国境はなくて文化の溝を埋める事は出来るのだろうか?
まずはジャパンのこの曲から。
ジャパンは1970年代半ばから80年代前半まで活動していたイギリスのバンドだが、当初は本国では大した知名度もなく、日本でだけ大人気というよくあるパターンのバンドだった。
このジャパン人気の元を作ったのはおそらく当時の音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の強烈なプッシュがあったためだと思われる。
創刊は何と1930年代だというから、おそろしく歴史のあった老舗音楽雑誌らしい。70年代にはロック少年少女向けのアイドル的バンドを発掘し、広く知らしめるという方向性で、美形バンド・ファンの発展に大きく貢献した。
ROCKHURRAHの実家では二人の兄が「音楽専科」とか「プレイヤー」とかの音楽雑誌を読んでいたが、自分で選んで読んでたのは「ロックマガジン」と「DOLL(昔は「ZOO」)」、そして「フールズメイト」の三誌で東京に出てからは「ZIGZAG EAST」や「NEWS WAVE」「オブスキュア」などの雑誌まで毎号律儀に買っていた。たまに洋書までも手を出してたから雑誌代もかなりかかってたのを思い出すワン。
「ロッキン・オン」とか「クロスビート」とか「ミュージック・マガジン」とか、主流の音楽雑誌が全然出てこないところがいかにもROCKHURRAHらしいね。ん?個人的な雑誌談義はどうでもいいか。
「ミュージックライフ」はたぶん兄弟の誰も読んでなかったと思うが、書店の音楽雑誌コーナー見るとイヤでも目に飛び込んでくるこの手の表紙。
ジャパンはその辺でよく見かけたな。
美形と呼ばれたロック・ミュージシャンは時代によって色々だろうが、ジャパンのデヴィッド・シルビアンやミック・カーンはこの時代では代表的なもので、彼らのヴィジュアルがまず音楽よりも先行しての人気だった。
音楽の方は最初の頃はグラムロックの延長線にディスコ・ミュージックをくっつけたような曲もあれば、ロキシー・ミュージックのあまりヒットしなかった曲みたいな雰囲気もあり、どちらかと言えば見た目ほどにはキャッチーではなかった印象がある。ミック・カーンの顔と演奏はすごいインパクトはあったけどね。
1979年発表のこの曲もニュー・ウェイブ真っ只中という時代を考えると案外地味だが、この後、1981年の「錻力の太鼓」あたりになると中国や日本の旋律をうまく取り入れた独自の音楽性で高い評価を得る。が、この曲は直接的には日本も東京も特に感じない曲調。
何十行にもわたって書いた後で言うのも何だが、実はROCKHURRAHはジャパンのレコードを所有していた事がなくて、個人的には特に思い出のないバンドなんだよね。好きとか嫌いとか以前にあまり知らない、しかも知らないくせに何かそれっぽい事を書いているという仰天のいいかげんさ。最初からこんなんでいいのか?
次は1980年に大ヒットしたヴェイパーズのこの曲。
なぜだかこのビデオだけ別サイトのものだが仕方ない。見栄え悪くてごめんね。
そういう企画自体がすでに大昔の事となってしまったが、一時期「消えた80年代ヒット曲」とか「一発屋特集」みたいな企画があった場合には、かなりの確率で取り上げられていたと思われる一発屋の典型だな。
これはモロにパワーポップ全盛期のノリの良い曲で、タイプは全然違うがレジロスや初期XTCなどと同じくアップテンポでキレのある演奏。
ザ・ジャムのプロデューサーによるプロデュース作品で全英3位のヒット曲にまでなったが、その時の1位がジャムの「Going Underground」だった、要するに同じプロデューサーにNo.1を阻まれたというエピソードがあるらしい。
ヴォーカルの男が前髪パッツンなのに後ろが長い、昔の関西のヤンキー子供みたいな髪型なのが時代を感じさせるね。アメリカのパンク・バンド、ディッキーズのヴォーカルも確かこんな髪型だったな。ブライアン・イーノやマガジンのハワード・デヴォートも同じ系列の髪型なのでまとめてみた。軽薄で身軽な動きと顔つきが「ズーランダー」の頃のベン・スティラーに何となく似てるような気がするな。
ビデオの方は典型的な勘違いだけど、日本では決して美人と言われないタイプの芸者、そしてサムライではなくて居合い抜きの剣術家などが登場する。(註:現在このビデオがどうしても見当たらないので別のビデオで代用)
曲のイントロは外人が「日本の音」だとよく勘違いする中華風メロディ。
これだけで日本を表現する安易さがツッコミどころ満載だが、 居合い抜きがちょっとだけ他にない発想だったかな?もしかしてこれを=侍だと勘違いしてたのかな?
そしてこれ、ビー・バップ・デラックスの一番最後くらいにリリースされた1977年の曲で、この後バンドは解散。ビル・ネルソンはもっとパンクやニュー・ウェイブ真っ只中の音楽をやるためにレッド・ノイズ、そしてソロとなる。
ビル・ネルソンについてはウチのブログで特集してるから、大して詳しくは書いてないけどそっちも参照してみてね。
このバンドが早くから日本や東洋に目を向けていたという事はないが、中期の頃の曲「Blazing Apostles (狂信者)」では「Old Japan」という歌詞のところで例の勘違い中華メロディを弾いてるから、やはり日本への理解度も他のバンド同様ということかね。
80年代、ソロの時代にはYMOの高橋幸宏と交流があり、お互いのソロ・アルバムにギターとドラムで参加したり、YMOのツアーにギタリストとして参加したりもした。奥さんも日本人なので並みの英国人よりはずっと日本に対する理解も深いはず。
この曲はそういう時代の前なんだけど、まさにニュー・ウェイブ夜明け前といった雰囲気でこのバンドの先進性を物語っている。まだYMOも登場する前にシンセサイザーとギターによる擬似テクノみたいな音楽をやってるんだもんな。 おそらく日本の童謡とかにインスパイアされたであろうメロディがチープながら印象的。ビデオの方は誰かが後で編集したもので全然オフィシャルじゃないけど、キャリアの割には動いてる映像が非常に少ないバンドだったので、こんなので許して。
今回はあまりひとつの曲について詳しく書かなかったから短いけどこれで最後。
スコットランドのヘンな歌姫、アネカの大ヒット曲だ。
1981年に全英1位になってるから上に書いたヴェイパーズよりも一瞬の人気は高かったという事になるのか?
81年と言えばおそらくニューロマンティック全盛期あたりで、チャートに上がる音楽以外にも様々なジャンルがひしめいていた時代だ。それだけ層の厚い時代にこんなインチキ・ジャパニーズがまかり通ってたとは逆に驚きだが、主にニュー・ウェイブの世界ばかりを見てきたROCKHURRAHと世間一般の音楽事情には少しズレがあるのは当然。
博物館みたいなところで激しく剣道の試合中という意味不明のシチュエーション、しかも特にオチもないし、日本を表現しているとも思えないよ。着物を着てなぜか合掌ポーズ、そして割り箸?プロペラ?みたいな奇妙なかんざしのアネカが歌うのが「外人が感じる典型的な日本的メロディ」ってヤツ。
うーん、ヘンはヘンだけど勘違いというよりは プロモーション・ビデオの監督が何だかよくわからない人だった、という気もするな。
外人が感じる典型的な日本のイメージを逆手に取ったサンディー&サンセッツの方がよほどそれっぽい映像を残してるよ。
以上、もっと日本っぽい曲や勘違い甚だしい映像とかも探せばあるんだろうが、70〜80年代にこだわってROCKHURRAHが集めたのがこういうのになってしまった。延々とダラダラした長い記事やセンテンスが一部で有名なROCKHURRAHの文章だが、今回は実に控えめ。夏の疲れが出たかな?
ではまた涼しくなったら会いましょう。
さらば夏の日(前にも書いたよ)。