ふたりのイエスタデイ chapter28 / The Velvet Underground

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【ウォーホルのバナナが描かれた1stアルバム】

SNAKEPIPE WROTE:

先週、ROCKHURRAHが書いた「残暑見舞2025」にあったように、お盆時期から約10日程手術のために入院していたSNAKEPIPE。
日本一(世界一かも)と言われている名医に執刀してもらい、無事に退院したんだよね。
手術の翌日から立って歩けたのにはびっくり!
そして退院時も、迎えに来てくれたROCKHURRAHとともに、自分の足で帰宅できて良かったよ。
皆様、お騒がせしましたが、ここにSNAKEPIPEの復活を宣言いたします!(笑)
報告に続いて、通常のブログに戻ろうか。

当ブログのカテゴリー「ふたりのイエスタデイ」で、前回書いた「ふたりのイエスタデイ chapter27 / RUN DMC」について、ご指摘を受けてしまった。
RUN DMCについては2020年2月に「ふたりのイエスタデイ chapter17 /Sigue Sigue Sputnik&RUN DMC」として記事にしている、というもの。
6年前に書いたことを失念していたとは!
ダブった記事を載せてしまい、深くお詫び申し上げます。
恥ずかしいミスだね。(笑)

気を取り直して、「ふたりのイエスタデイ」を書いていこう。
今回はヴェルヴェット・アンダーグラウンドについてだよ!
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(The Velvet Underground)は、1964年にニューヨークで結成されたバンド。
ロック史上、最も革新的で影響力のあるバンドのひとつとして知られているんだとか。
画像中央のルー・リードが作詞したのは、ドラッグ、セクシュアリティや暴力など、それまでは扱われなかったテーマというのが特徴なんだって。
ポップ・アーティストのアンディ・ウォーホル(画像左から2番め)が、デビューアルバムのプロデュースとアルバム・ジャケットを手がけ、アートと音楽の融合という点も画期的だったという。
ウォーホルが連れてきたとされるモデルのニコ(画像左)が1stアルバムのみヴォーカルとして参加している。
ヒップでクール(死語)な人たちが集まって、バンドやったってことだね。
SNAKEPIPEはリアルタイムで聴いていたわけではないので、伝聞としてお伝えしているよ。(笑)

ここからが思い出につながる話ね。
SNAKEPIPEの父親は、数回、写真展を開催したことがある。
展覧会場ではBGMを流すことができたので、SNAKEPIPEと長年来の友人Mが音楽を担当した。
手持ちの音源をいくつかピックアップし、父親に聴いてもらう。
その中で「これ、いいね!」と父親が選んだのが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Sunday Morning」だった。

精神世界的な映像だね!(笑)
ゴッホの絵画作品みたいな「ぐるぐる」が出てきて、とてもアートな雰囲気。
2017年にアップされたようなので、当時は観ていない動画だよ。
デビュー・アルバム「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ」を聴きながら、父親にアンディ・ウォーホルが関係している話を伝えると、とても嬉しそうに「これに決めよう!」と瞬時にBGMが決定した。
SNAKEPIPEはCDを所持していなかったので、父が購入し、展覧会場で使用することになった。
その時のCDを今でも所持していて、愛聴しているよ!(笑)

父親の展覧会場で、SNAKEPIPEは受付に立っていた。
ふらっと立ち寄った外国人(欧米人)から英語で尋ねられる。
「この曲のタイトルは?」
展覧会のテーマにした「Sunday Morning」だったので、CDジャケットを見せて説明する。
「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、OK!サンキュー!」
暗記するように何度もバンド名をつぶやき、お礼を言って去っていった。
写真展についてのやり取りをしているのかと、父親が駆け寄ってきたけれど、質問が音楽だと分かり落胆していたっけ。(笑)

NHKで再放送されていた「ヴェルヴェットの奇跡 革命家とロックシンガー」を観る。
1989年にチェコスロバキアが革命により、共産党政権が崩壊し民主化が始まる。
チェコの反体制派から熱烈な指示を受けたのが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの1stだったという。
後にチェコ大統領となるヴァーツラフ・ハヴェルが偶然手にしたレコードが革命の始まりだったとされ、「ヴェルヴェット革命」と呼ばれているという。
「音楽が歴史を変えた」ドキュメンタリーで、とても興味深かったよ!
大統領になったハヴェルが衝撃を受けたのが「I’m Waiting For The Man」だったという。

ピンボケで、ズームのスピードが速いため、かなり見づらい動画だよ。
SNAKEPIPEは洋楽を日本盤で買うことがほとんどないので、対訳が載っている解説を読んだことがない。
「I’m Waiting For The Man」はどんな内容なのか調べてみようかな。

マン(The Man)=麻薬の売人に会うために、26ドル握りしめレキシントン通りの125番地に向かう俺。
ここは白人の俺にとって居心地が悪い場所。
好奇の目で見られたり、何をしに来たのか探られてしまうからさ。
気にせず「マン」を待ち続けて、ようやく「マン」がやってくる。
待たされた挙げ句やっとドラッグにありつき、安心して帰路につけたよ。

少しSNAKEPIPEの脚色が入っているけど、歌詞を要約するとこんな感じみたい。
タイトルは「売人を待つ」というスラングで、当時の26ドルは、今だと200〜250ドルくらい。
これはヘロインの相場だったらしいね。
まるでスナップショットのように街の様子を切り取り、ドラッグをテーマにした曲は斬新だったんだね。
ヒッピーが提唱する「愛と平和」とは一線を画してるよ。
まさにバンド名通り「隠れた世界」や「社会の裏側」を表現していることが分かるね。

ROCKHURRAHがデビュー・アルバムの中で好きな曲は「Venus In Furs」だって。
タイトルはマゾッホの小説「毛皮を着たヴィーナス」から取られている曲なんだね。
ジョン・ケイルのエレクトリック・ヴィオラが印象的だよ!
ROCKHURRAHはジョン・ケイルが好きで、レコードを数枚所持しているという。

こちらもピンボケの粗い画像だけど、当時の雰囲気が感じられるよね。
ウォーホルが関わったことでアートと音楽が融合されたことは前述したけれど、文学的要素も加わっているよ。
80年代日本でバンド名に「マダム・エドワルダ」と名付けたり、「ジュネ」を名乗ったりするのも同じ傾向だよね。(笑)
文学と音楽とファッションとアートなど、複数の要素を「たしなんで」いたのは、80年代の共通項だったのかもしれない。
SNAKEPIPEもROCKHURRAHも然り、だからね!

2023年3月に「合田佐和子展」を鑑賞し、ルー・リードのアルバム・ジャケットを手がけていたことを知る。
合田佐和子はかねてよりルー・リードのファンで、1975年に来日した際、インタビューをしたという。
気難しいルー・リードと打ち解け、1977年に発売されたベスト盤(日本盤)アルバム・ジャケットの依頼を受けた話が紹介されていたっけ。
合田佐和子が出会った時には、すでにヴェルヴェット・アンダーグラウンドは解散していて、ソロ活動していたんだね。
ルー・リードについて調べていたら、2008年に前衛音楽家のローリー・アンダーソンと結婚していたことを知ったよ。
今頃驚くのは、遅過ぎだよね。(笑)

今回はヴェルヴェット・アンダーグラウンドにまつわる思い出話と曲の紹介をしてみたよ。
曲を聴いたりにおいをかいだりして、ふと昔の記憶が蘇ってくることがあるよね。
やっぱり歳だからかな?(笑)

ふたりのイエスタデイ chapter27 / RUN DMC

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【今でも心躍るシンプルなロゴ・マーク】

SNAKEPIPE WROTE:

ふたりのイエスタデイ」では、ROCKHURRAH RECORDSの思い出にまつわる「よもやま話」を紹介している。
今日は1980年代後半にSNAKEPIPEが夢中になっていたヒップホップ・グループ、RUN DMCについて書いてみたいと思う。
RUN DMCの表記がいくつかあるようだけど、当ブログではRUN DMCで統一するのでよろしくね!

まずはメンバー紹介から。
画像左からMCのRunとDMC、DJのJam Master Jayの3人チームなんだよね。
グループ名はMC2人の名前から、つけられていることが分かる。
RUN DMCとして活動を開始したのが1982年だという。
1984年には1stアルバムを発売、1985年に2nd、1986年には3rdアルバムを出している。
1stアルバムから50万枚を売上げ、ゴールド・ディスクを獲得したというから、最初から成功してるんだね。
2ndは100万枚(プラチナ・ディスク)、そして3rdは「史上最も売れたラップ・アルバム」として認知される。

それが「Raising Hell」なんだよね!
それまではPUNKやニュー・ウェイヴを聴いていたSNAKEPIPEも、RUN DMCに魅了されてしまった。
当時のNOWな人達は、こぞってヒップホップへ移行していたんだよね。
藤原ヒロシと高木完はタイニー・パンクスを結成し、レコード・レーベル「MAJOR FORCE」を設立していた。
そのレーベルから出た「建設的」や中西俊夫のTYCOON TO$Hのアルバムも持ってたなあ。(笑)
RUN DMCの曲だけではなく、ファッションにも注目が集まっていたよ。
カンゴールの帽子、アディダスのジャージやスニーカー、太いチェーンのネックレスなどが大流行!
SNAKEPIPEもアディダス着て、太いゴールド・チェーン着けてましたとも。(笑)

その頃、RUN DMCの来日が決定!
1986年12月20日、場所はNHKホールだったと検索して判明。
SNAKEPIPEは長年来の友人Mと共に会場入りしたよ。
40年前のこととは、怖いね。(笑)

日本公演前の1986年7月にシングルとして発売された「Walk This Way」に熱狂した人は多かったはず。
ロックとヒップホップの融合!
そしてエアロスミス本人が登場するMVも大人気だった。
サンプリングというのは、DJが気に入ったフレーズを勝手に使用するものと思っていたけど、違うのかな。
「Walk This Way」の場合は、本家エアロスミスのお墨付きだから、著作権等全く問題ないよね。
コロッケが美川憲一のモノマネしてる後ろから「ご本人登場」する、みたいな公認ってことだもんね。(例えが古い!)

1986年のNHKホール公演で、観客は全体的に大人しかったように記憶している。
ヒップホップのノリ方が分からないから、仕方ないよね。
SNAKEPIPEと友人Mは、通路に出て踊っていたっけ。
ツバキハウスで踊っていたように、ピョンピョン飛び跳ねたものよ。
他の踊り方知らなかったし。(笑)

SNAKEPIPEの記憶違いでなければ、別の年にあと2回ライブに行っているはずなんだよね。
1989年12月に再びNHKホールで公演をした記録は残っているようなので、多分これにも行ったんだろうな。
写真もパンフレットも何も残っていないので、はっきり言い切れないのが辛いけど。(笑)
そして最後に行ったのは、関内辺りの小さいライブハウスだった。
友人Mともう一人友人Sの3人で出かけたんだよね。
横浜界隈の地理に疎いので、わざわざタクシーで会場まで行ったっけ。
「お客さんどこから来たの?」
「そんなこと聞くな!」ってね。
タクシー運転手が地名の菊名にかけたダジャレを言ってきたけれど、3人でキョトンとしていた。
当時は千葉県民だったから、横浜近辺の地名を知らなかったからね。(笑)

1989年か1990年に行ったライブハウス(ディスコ?)は、割と小さめだった。
お客さんの半分くらいは黒人で、ステージとの距離が近かったよ。
長年来の友人Mに覚えているか尋ねると「伊勢佐木町のOXUM TRAP(オクスン・トラップ)じゃなかった?」と即答され、びっくり!
観客の中にZOOのヒロとルークもいたという話まで出てきたよ。
昔のことをよく覚えていて、素晴らしい記憶力だよね。(笑)
かつてOXUM TRAPが存在したことは確認できたけれど、RUN DMCの公演についての情報は見つけられなかった。
友人MとSNAKEPIPEの記憶だけが頼りだね!

少し待たされ、ついにRUN DMC登場!
興奮し過ぎて踊りまくり、床に転倒したSNAKEPIPE。
その時に演奏されていた曲が「Mary, Mary」。

当時のSNAKEPIPEはヒップホップ系か、ガンズ・アンド・ローゼズのアクセル・ローズを真似たロック系の服装だった。
バンダナ巻いた上にキャップを後ろ前にかぶったりね。(笑)
OXUM TRAPに行った時はガンズ系の服で、革ジャンにレザーのブーツを履いていた。
その靴で滑って転んでしまったのである。
「ブレイクダンスしようと思ったんでしょ?」
駆け寄るなり、尋ねてくる友人M。
ブレイクダンスなんて踊れないよ!(笑)

40年近く前のことが、まるで昨日のようで、とても懐かしい。
書いてるうちにノリノリになってきたSNAKEPIPE。
もう1曲載せさせてもらおう!
「It’s Tricky」もお気に入りなんだよね。

2002年にジャム・マスター・ジェイが射殺されてしまう。
このニュースを知った時はショックだったなあ!
RUN DMCは、この時点で活動休止し事実上の解散となってしまう。
ジェイを撃った犯人は、18年後の2020年に逮捕されたという。
ドラッグ絡みの事件だったこと、ジェイが37歳で亡くなったことを知る。
RUN DMCの栄光と転落が浮き彫りになり、悲しくなるね。

当時はレコードで、今ではCDで愛聴しているRUN DMC。
ジャイの不在はとても残念だけど、SNAKEPIPEは今でもファンなんだよね。
その後のヒップホップに、ファッションを含めて多大な影響を与えたグループだと思うよ。
ヒップホップが好きだった頃は、他にもLL・クール・JやPUBLIC ENEMYもよく聴いてたなあ。
今でもCDは全て所持してるよ!(笑)

次第にSNAKEPIPEの好みは変化していく。
ニュー・ウェイヴからPUNK、そしてヒップホップ。
次に傾倒した音楽ジャンルは、何でしょう?
答えはまたいつか、書いてみようかな。(笑)

ニッチ用美術館 第8回・・・の続き

【こないだよりはマシだけど代わり映えしないタイトルバックだな】

ROCKHURRAH WROTE:

この前はSNAKEPIPEが体調不良で休みになってしまったが、その翌週には何とか熱も下がりブログも書けるようになった。
・・・などと書いてたら、木曜日に予想もしてなかった大変不慮の事態が起きて、SNAKEPIPEはしばらくの間、お休みとさせていただくことになった。

高熱とは別件でSNAKEPIPEは医療機関の検査を受けてたんだが、実はその両方に関係があって、年末からの不明熱の原因が様々な検査の末、何とか特定出来た。
そこで突然に緊急入院という事になり、当日のうちに病床の人となった、というのが大変不慮の事態というわけだ。
悪いところはあったけどまさか入院する気など全くなかったので、これには2人ともビックリ。
全ての予定とかもキャンセルして病気の治療に専念する事になったのだ。
ただ、入院すると思ってなかったくらいだから、SNAKEPIPEは寝たきりというわけではなく、その前と比べて特に変わった様子もないのがまだ良かったところ。
早く元気になって欲しいと願いながらROCKHURRAHもSNAKEPIPEも頑張るよ。

こないだは時間切れで、たった2つしか書けなかった「ニッチ用美術館」だが、その続きが気になる人はいないとは思うけど、残りを書いてゆこう。
自分でも気づいてるけどROCKHURRAHの文章はやたら「だが」「けど」が多いな。
「たらればならぬだがけど」、全部ひらがなで書くと復活の呪文(大昔のゲームはセーブ機能がなかったので、長いパスワードを紙に書いて記録してた)みたいだな。
こういう悪文を特徴や個性とする気も全く無いけど(ほらまた「けど」)、センテンスが長すぎるのがROCKHURRAHの難点だと思うよ。

今回のテーマはバンドのメンバーが影響を受けたのか、レコード・ジャケットのアートワークを作る人が好きなのかは不明だけど、絵画作品をそのままジャケットにしてしまったものをROCKHURRAHの目線で探してみたよ。
2週間ほど前の続きね。

ROOM3 谷克多の美学

「読めん!」じゃなくて読める漢字ばかりだけど、これは一体?
中国語では让•谷克多と書いてジャン・コクトーと読むらしい。
言われてみればなるほど、という感じがまるでしないし、人名中の「谷」部分がどこにも当てはまる気がしないのはROCKHURRAHだけ?
克多は「こくた→コクト」みたいなニュアンスなのかね。
让に至ってはROCKHURRAHには想像もつかない漢字だよ。
こんなのがスラスラと読める人、いるんだろうか?

ジャン・コクトー(1889-1963)は言うまでもなくフランスの著名な芸術家。
詩人として特に有名だが、他にも小説、評論、脚本、絵画、デザイン、映画、音楽など様々な分野で活躍し「芸術のデパート」とまで言われる才能に溢れた人物だ。
数多くの人が好きな「美女と野獣」でも知られてるが、コクトーが原作なわけではなく、最初に実写映画にした事で有名。

このように芸術愛好家だけに支持されたわけでなく、大衆的な分野でも成功を収めたアーティストがそれ以前の時代にはあまりいないように感じるので、後の時代のマルチメディアみたいな元祖でもあったのかな、と素人のROCKHURRAHは思うよ。
活躍の幅が大きすぎて、全ての芸術分野に1人でリスペクト出来る人材はなかなかいないのが現状だと思うが、なぜかコクトー信者は彼の全てを理解してみせようという壮大な気宇(気構え、心の広さ)に満ちた人ばかり。

そんな熱烈なコクトー愛に満ち溢れたのがこの人、ビル・ネルソンだ。
中国語では昼寝損と書く(大ウソ、しかも程度が低い)。

70年代ブリティッシュ・ロックの中堅バンドとして、知らない人も多かったバンドにビー・バップ・デラックスがあった。
1974年に鮮烈なドクロギターのジャケット「Axe Victim(美しき生贄)」でメジャーデビューした時はグラムロック寄りのハードロック、あるいはプログレッシブ・ロックとのミクスチャーみたいな位置にあったが、このバンドのギタリストでヴォーカリストだったのがビル・ネルソンなのだ。

ビー・バップ・デラックスはデヴィッド・ボウイのような音楽とクイーンのような美しい旋律のロック、それにSF的な未来観を重ねたような音楽で、その時代のロックの中では少し異質なものだった。
ギターを弾きまくってたのは3rdアルバムくらいまでで、その後はキーボードやシンセサイザーとのアンサンブルを重視した独自の未来派ロックを展開していて、後のニュー・ウェイブの先駆け的なバンドとして知られている。
EMIハーヴェスト・レーベルからレコードを出してて、日本でも確か全作品がリリースされてたはず。
がしかし、デビュー当時の日本における洋楽の流行はハードロックとかプログレとか、割と典型的なものばかりがもてはやされるような時代。
グラムロックにしては化粧っ気や毒々しさがないしハードロックと言うにはそんなに荒々しくもない、かなりポップな部類のロックだったにも関わらず、そのどっちつかずの音楽性ゆえに日本ではあまり知られてないバンドのひとつだったかも。
EMIハーヴェストのWikipediaでも「主なバンド」の項目に名前が載らないくらいの知名度だったのが悲しい。

スティーブ・ハーリィーのコックニー・レベルもブライアン・フェリーのロキシー・ミュージックも、その時代のちょっと異端派に挙げられるが、その辺の音楽を聴いて影響を受けた世代が少し後のパンクやニュー・ウェイブへと繋がってゆく、というのが英国音楽の流れのひとつだと言えるよ。

ビー・バップ・デラックスの最後のアルバムはすでにニュー・ウェイブ時代の1978年だから、直接的にニュー・ウェイブに影響を与えたわけではないが、ビル・ネルソンの曲作りは早くから昔のロックというよりはニュー・ウェイブっぽい部分もあったと思う。
ビル・ネルソンのギター・プレイの影響を受けてると思われるのがスキッズ、ビッグ・カントリーのスチュアート・アダムソンや限りなく誰も知らないバンドに近いスコットランドのゾーンズ(スキッズのラッセル・ウェッブも在籍してた)とかオンリー・ワンズとか、有名無名に関わらず彼のようなギターを弾きたいと思うギター小僧は結構いたと思うよ。
ジミヘンやクラプトンみたいなギターじゃニュー・ウェイブにはならないからね。

1978年にビー・バップ・デラックスを解散させたビル・ネルソンが向かったのは、かつて自分が影響を与えたニュー・ウェイブ市場だった。
パンク、ニュー・ウェイブの誕生はこの時代の既存のミュージシャンにとっては新しい刺激でもあったに違いなく、後の世代から逆に影響を受けて方向転換したバンドやミュージシャンも数多くいたというわけだ。
ビル・ネルソンもその1人で、ビー・バップ・デラックスとは違う激しい方向性で初期ウルトラヴォックスやXTCのような勢いのあるエレクトリック・パンクとでも言うべきバンドを新しく始めた。
ビル・ネルソンズ・レッド・ノイズという素晴らしいバンドを1979年に始めたが、これに狂喜乱舞して心底からのめり込んだのが当時のROCKHURRAH(少年)だった。
この辺のことについては当ブログでも記事を書いてるので参照してね。

その後、バンドよりも宅録みたいな、よりプライベートな音楽制作にシフトしてゆき、1981年からはソロ名義に変わって、EMIからマーキュリーに移籍したりして、いわゆるエレポップ、テクノポップという分野で業績を残しているのが80年代のビル・ネルソンだった。

さて、ようやく本題だがビル・ネルソンとジャン・コクトーの関係について。
ビー・バップ・デラックスの2nd「Futurama(1975)」でも「Jean Cocteau」という美しいギターの名曲を書いていて、コクトー好きなのはわかってたが、自身の持つインディーズ・レーベルもコクトー・レコードにするほどの傾倒ぶり。
ほぼ自分のレコード出すためにあったようなレーベルだが、後に「I Ran」で一世を風靡したア・フロック・オブ・シーガルズもこのレーベルの出身だ。
冒頭のカモメのさえずりのようなキュンキュンという音は、ビー・バップ・デラックスの「Sister Seagull」でもファンにはおなじみの効果音ギター。
ビル・ネルソンが伝授したのか技を盗んだのかは知らないが、フロック・オブ・シーガルズもこの音を効果的に使いこなしているな。
あとはビル・ネルソンの実弟でレッドノイズでも重要なサックス・プレイヤー、イアン・ネルソン(中国語では慰安寝損、またまた大ウソ)の在籍したフィアット・ルクスとか、33回転なのか45回転なのか不明の変な曲をリリースしてたラスト・マン・イン・ヨーロッパとか、スキッズのリチャード・ジョブソンによる詩の朗読とか、高橋幸宏のソロとか、彼と親交のあったミュージシャンという内輪ばかりで固めたレーベルがコクトー・レコードだったと言える。

ジャン・コクトーは先にも書いた通り、芸術的なあらゆる分野で才能を見せたすごい才人なんだが、この人の書く絵やデッサン、ドローイングも独特の個性で素晴らしいもの。
サラサラっと描いた落書きのようなものがとてもうまくて、ちゃんとした素晴らしいアートなデザインになってるところがすごい。
彼の影響を受けたイラストレーターも数多くいたに違いない。
80年代のパンクでニュー・ウェイブな漫画家、奥平イラも一時期コクトーみたいなキャラクターで描いてたな。
コクトー・レーベルのロゴマークやビル・ネルソンのレコード・ジャケットもコクトー本人なのか似せて描いたのかは不明だけど(そこまで詳細に調べる余裕がなかった)、コクトーっぽいものが多数。
ROOM3の冒頭を飾ったレコード・ジャケットもまさにコクトー的な一枚だね。
コクトー・ツインズとかコクトーの名を冠したバンドもあったけど、ビル・ネルソンほどコクトーに心酔して徹底したアーティストは他にないと思えるよ。

ビル・ネルソン自身も、レッドノイズの時代から多くの曲で自分の専門であるギターと歌以外のパート、ベースにドラムにシンセサイザーなどもこなし、プロデュースも出来る、自分のスタジオもレーベルも持ってる。
まさに1人で何でも出来るマルチな才能を発揮していて、その辺が自分と多才なコクトーを重ねてたんじゃなかろうかね?
悲しいかな、誰も彼の事を「音楽のデパート」とは評してくれなかったが。

「Flaming Desire」はマーキュリー移籍後のアルバム「The Love That Whirls(1982)」に収録、シングルにもなった代表曲と言っても良い。
ドイツ表現主義の映画やジャン・コクトーの「詩人の血」あたりを思わせる雰囲気のモノクロ映像、彼の美学が集約された素晴らしい作品だと思うよ。
レーベルもメジャーだし音楽の質もヴィジュアルも、もっと売れてもいい活躍をしてもおかしくないアーティストなのに、意外なほどビデオは少なく、この曲とEMI時代の「Do You Dream In Colour?」くらいしか見たことないので動いてるこの時期の彼を見れる貴重な映像だな。

ちなみにこの「The Love That Whirls」には地元ヨークシャーの劇団による公演「美女と野獣」にビル・ネルソンが音楽をつけたという全曲インストのサントラ・アルバムまでおまけに付いててお値段そのまま。
1981年くらいから「カリガリ博士」のサントラ作ったり、ポピュラーな音楽から離れた現代音楽やアンビエントっぽいインスト作品もつくるようになって、むしろコクトー・レコードはそっちの膨大なリリースの方が多いんじゃなかろうか。
下世話な話だが、あまり儲かるとは思えないような活動を熱心にやったり、他のニュー・ウェイブのアーティストがマネージメントに縛られて好きな事が出来ないのを尻目に、悠々自適な暮らしぶりが羨ましくも思う。そこまで過去の印税があるんだろうかね?
ROCKHURRAHも80年代に戻れるならビル・ネルソンの門下生となり、彼のプロデュースでコクトー・レコードから1枚でも出したかったものだよ。
え?無理?

やっぱり今回も時間切れ、こないだよりも少ないROOM3の一部屋だけで終わることになってしまったが、続きはまた書くよ。
最初に書いた通り、SNAKEPIPEのブログは彼女が退院して元気になるまで、当分の間お休みとさせて頂く。
その間に時間があればROCKHURRAHも何か書いてゆきたいが、難しい時はきっぱり休むね。

ではまた、
これから
SNAKEPIPEが待つ
病院に向かうのだ。(詩的表現を狙ったが意味なしの改行)

ニッチ用美術館 第8回

【タイトルビデオも時間が足りず、シンプルで技がないな】

ROCKHURRAH WROTE:

元旦のブログからその後のブログ記事でもちょこっと書いてるように、SNAKEPIPEの病気が1ヶ月以上経った今でも完治とは程遠い状態。
最初は風邪だと思い、正月期間だったので病院にも行かず様子見をしていたんだが、熱がいつまでも下がらないのでいくつかの病院を受診してみた。
結局のところ何が原因で何の病気なのかもはっきりとわからないというのが現状、良くなってる時もあったからぬか喜びしてたのになあ。
飲んだ薬のおかげで寝不足になってしまい、眠れる時には寝かしつけておこうという判断になった。

というわけで今週はSNAKEPIPEはお休み。
最近滅多にブログを書かないと評判のROCKHURRAHが、急遽代理で書き始めたというわけだ。

心配は色々あるけどそのうち完治して元気になってくれると信じていよう。
読者のみなさんがどれくらいいるのかは全く不明だけど、ウチのブログに少しでもシンパシーを感じて下さる方がいたら、ぜひ温かいコメントなどいただけると嬉しいよ。

さて、代理になったのがだいぶ遅い時間だったからROCKHURRAHにはあまり時間がない。

いつもは関係ない前置きが長くてセンテンスも長いROCKHURRAHだが、今日は気を引き締めて簡潔に進行しよう。

で、今日久しぶりにやるのはROCKHURRAHの担当する名企画(自画自賛)「ニッチ用美術館」にしてみよう、というのが自分の脳内会議の末、さきほどやっと決まった。

いつものROCKHURRAHだと「この企画とは〜」などと言って毎回ダラダラ解説を書くんだが、そんなヒマはないので、わからない人は前の記事でも読んでみて下さい。

2017年に天啓のごとく「ニッチ用美術館」の趣旨が思い浮かび、タイトルバックの映像まで作ったりして、ものすごい情熱をかけてこの企画が始まった。
ウチのブログは大半はSNAKEPIPEが書いてるんだけど、滅多に書かない、書けないROCKHURRAHも一応自分の持ち場(シリーズ記事)は持ってるんだよ。
中でもこの企画はなかなかよそにはない切り口で評判もいい、個人的にも気に入ってるシリーズ記事のひとつなのだ。
がしかし、最後に書いたのが2021年夏。
タイトル映像を毎回変えたりして、とにかく時間と労力がかかる企画なのが難点。
だから滅多に新しい記事を書けなくなってしまった。
これじゃ忘れ去られても仕方ないよな。

今週は著名芸術家の作品を似せた、パクった、あるいは正当な許可を得て引用したオマージュ溢れるレコード・ジャケットに焦点を当ててみよう。
相も変わらずROCKHURRAHの特色である、1970〜1980年代のパンクやニュー・ウェイブと呼ばれた音楽のみで構成されてるので、そういう古い洋楽なんてわかんないような人こそ読むべし(偉そう)。

では始めてみようか。

ROOM 1 馬塞爾の美学

そしてまた相も変わらず「読めん!」というサブタイトルで構成するのが「ニッチ用美術館」のお約束。
今回は中国語による外国人の表記という難しい問題に真っ向から取り組んでみた。
馬塞爾と書いてマルセルと読むそうだ。
馬塞爾・杜象と書くとすなわち、マルセル・デュシャンということになる(らしい)。
言われてみれば何となくそんな気がします、程度だけど、よくぞこんな当て字を考えるよね。
马塞尔・杜尚という書き方もあってどっちが正しいのかもわからないが、中国人は日本人がカタカナ読めるようにみんな読めるんかいな?

マルセル・デュシャン(1887-1968)と言えば現代アートの元祖的な存在の一人と言ってもいい偉人なんだが、言ってる事や、やってる事に共感出来てよくわかる部分もあれば、何を表してるのか全く理解不能という作品も残したアーティストだね。
それすらも深く考えて理解している評論家やプロの方々もいるようだが、たぶん本人以外には誰にも「よくわからない」と思うよ。
などと書くと炎上するのが今なのかな?
センセーショナルな反芸術みたいなものを引っ提げて美術界に登場したり、そういうのもアリなんだと周りに思わせてムーブメント、あるいは流行りにしたり。
ちょっと芸術やめてチェスに明け暮れたり、女装してみたり。
まあ逸話には事欠かないナイス・ガイだったのは間違いない。
見た目も良かったからアーティストとして今でも好きな人は多いはず。
そんなに詳しいわけでもない不肖ROCKHURRAHごときでも、レディメイドの影響は強く受けてるのは間違いないよ。

そういう破天荒な生き様や作品は彼が活躍した時代のパンクでありニュー・ウェイブだったはずだ。

時は流れてパンク真っ盛りの70年代の英国、ここにもデュシャンの痕跡を見る事が出来た。
マンチェスター出身のバズコックスはヒット曲も多く、知名度も高い人気パンク・バンドだ。
最も初期には「一度聴いたら忘れられない粘着質の歌声」とROCKHURRAHが評している、ハワード・ディヴォートがヴォーカリストだったが、彼らの4曲入りシングル「Spiral Scratch」を初めて聴いた時の衝撃は今でも忘れることがない。
最もエキサイティングな時代にちょうど音楽を聴く世代に生まれた事はとてもラッキーだったと思うよ。
モロにパンクの洗礼を真っ向から受ける事が出来たわけだからね。
望む音楽は何でも無料で聴く事が出来る今の時代でも、この生体験だけは無理だからな。

そういう事を延々と書いてたら一向にブログが進まないので一気に端折るが、稀代の個性派ヴォーカリストだったハワード・ディヴォートはこの4曲だけであっさりバズコックスを卒業、嫌らしい歌声に磨きをかけてマガジンを始める。
残ったバズコックスはギタリストのピート・シェリーがヴォーカル兼任となって、そのへなちょこな歌声と類い稀なポップ・センスでパンク史に残る名曲を次々とリリース。
パンクはシングルだ、とよく言われるが、彼らのシングル曲はどれも勢いがあって、例えばインターネットのパンク・チャンネルのラジオでも必ず何回もかかるほどキャッチーな音作りが魅力だね。
中でも人気が高く「パンク史とは?(バンクシーとは?みたいだな)」というような趣旨のコンピレーションには欠かせないヒット曲がこちら、1978年発表の「Ever Fallen in Love」だろう。

2トーン・スカで人気あったザ・ビートの元メンバーが作った、ファイン・ヤング・カニバルズが80年代にカヴァーして再び大ヒットさせた事でもさらに知名度の高い曲だね。
虚ろな目つきで熱唱するピート・シェリーのこの映像を見て「パンクとは?」という問いかけに明確に答えられる若年層はいなさそうに感じるが、わしらの世代には頷く人も多かろう。
みんながみんなピストルズやクラッシュのようにカッコ良く決めてたわけじゃないんだよな。

さて、ニッチ用美術館の趣旨としてはこのジャケットを取り上げないと。
馬塞爾・杜象の代表作でもないとは思うが、1930年代に雑誌の表紙として作られたシルクスクリーン印刷が左の「Coeurs Volant(たゆたう心臓)」というもの。
よくわからないタイトルが多いデュシャン作の中でも割と直球、そしてデザインという分野でもとにかく目を引くキャッチーさで、ポスターとしても素晴らしいもの。
1900年代はじめに友禅染をヒントに英国で生まれた技法がシルクスクリーン印刷、それが普及して鮮やかな大量印刷が可能となり、デュシャンも後のウォーホルも一点ものじゃないアートに目をつけたってところがいいよね。
現物ではないがROCKHURRAHとSNAKEPIPEもカスヤの森現代美術館で去年鑑賞してきたのもコピーのひとつだったはず。
うーむ、何だかAI翻訳で書き写した文章みたいだな。

バズコックスのシングル・ジャケットはどれもアートっぽさとデザインっぽさが入り交じるものが多くて、ROCKHURRAHも好きなんだけど、このジャケットのはよく見るとちょっと違うようにも感じる。
レコード・ジャケットの裏側にちゃんと「Sleeve Front After Marcel Duchamp (Fluttering Hearts 1936)」と書いてあるので紛い物ではないんだろうが、制作してる時に何度も試行錯誤してると思うので、その時のコピーのひとつなんだろうかね。

うひょ〜、時間がないなどと言いながらROOM1だけでこんなに書いてしまった。
簡潔な文章などROCKHURRAHには書けないんだろうな。とっても無口なくせに。

ROOM 2 曼·雷の美学

これはすぐにピンと来るね。
曼·雷と書いてマン・レイ(1890-1976)と読む。
ダダイスムやシュルレアリスムといった20世紀前半の芸術運動の中でも、とりわけ写真の分野で燦然と輝く作品を残した大スターなのだ。
などと見てきたように書いたが、元々ROCKHURRAHはSNAKEPIPEのようにアートの世界を多く知ってるわけでもない門外漢。
そんなROCKHURRAHでもSNAKEPIPEと知り合う前から興味を持っていたのがダダイスムやシュルレアリスムの世界だった。
何で知ったのか、そのキッカケは展覧会でもアート関係の本でもなく、このレコードとかの情報から興味を持ったのが始まりだったかな。

その話はもう少し後にして、まずは曼·雷について。
調べりゃ誰でもわかると思うが、外国版のSF的キラキラネームみたいな名前は改名後のものであり、両親ともユダヤ系のアメリカ移住者だから、子供の時の名前はエマニュエル・ラドニツキーというアメリカ人ではなさそうな名前がついてた。
ユダヤ系と聞くと、どうしても時代的にナチスの迫害を恐れて・・・というような想像をしてしまうが、命がけで亡命したわけでもなくアメリカ生まれなのに、やはりどこの国でも他国から来た家族はあまり不自由なく暮らせないということかね。
エマニュエルの通称マニーをもじってマン、Radnitskyの綴りの最初と最後からRayと名乗るようになって、この芸名のような名前が誕生したらしいよ。

マン・レイは先に書いたマルセル・デュシャンをはじめとした、ダダやシュルレアリスムの有名芸術家の数多くと交友関係を持ち、自身も写真や絵画、立体作品に映像作品など多彩な分野のアーティストとして活躍した。
ただ写真をありのままに撮るのではなく、加工をしたり本物でもいい部分にあえて偽のものを加えたり、技巧を凝らしたところがアナログ時代のPhotoshop的で面白いと感じる人も多いだろうな。

さて、そんなマン・レイ作品をそのまんまストレートに使ったのがスキッズ、1980年作のシングル曲「Circus Games」だ。
歌詞から推測するとどうやらカードゲームなんだろうけど、この当時の英国で流行ってたのかもわからなかったよ。
流行りとかに関係なく、その家庭や特定の友達とだけローカルでやってたような遊びもあるからね。

スキッズはスコットランド出身の4人組で、1978年に地元のダンファームリンのレコード屋が興したノー・バッドというインディーズ・レーベルからデビュー・シングル「Charles」を出した。
それが評判になってパンク第2世代くらいが活躍していた英国でも人気バンドとなり、ヴァージン・レコードから1981年までに4枚のアルバムを出した、というのが略歴だけど、ROCKHURRAHが個人的に最も好きで追い求めてきたバンドのひとつだ。
このバンドを知ったのは音楽雑誌でも地元のレコード屋でもなく、音楽好き少年だったROCKHURRAHが熱心にやっていたカセットテープの編集が発端。
BASFというドイツ製のカセットテープがTDKやソニーよりは何だか通っぽく見える、という理由でこのメーカーのを愛用してた。
たぶんBASFのキャンペーンか何かで「生まれた時からコックニー・サウンド」というようなキャッチフレーズのチラシみたいなのが地元、小倉の電気屋の店先に置いてたのにふと目が留まって持ち帰ったんだが、そのキャンペーン・チラシのモデルがスキッズのリチャード・ジョブソンだったのだ。
今でも持ってりゃすごく珍しいものなんだろうが、さすがにそこまで物持ちが良くはない。

当時のROCKHURRAHは小倉から博多まで高速バスで出かけてレコードを買って帰るという事をしていて、月に2回くらいは買い出しに行ってたんだけど、そこで偶然にスキッズの2ndアルバムを見つけて買ったのがこのバンドとの出会いだったな。
スキッズ以前から大ファンだったビー・バップ・デラックスのビル・ネルソンがプロデュースとくれば好きになるに決まってる。

それからずっとスキッズのレコードを集めてきた・・・というほどにたくさんは出してないけどな。
派生したビッグ・カントリーやアーモリィ・ショウ、リチャード・ジョブソンの詩の朗読(ソロ)までも含めて見つけたら手に入れていたものだ。

「Circus Games」は3rdアルバムからのシングル曲で、パンクとかニュー・ウェイブとかの垣根を超えた80年代的ブリティッシュ・ロックの名曲だと思う。
サビの部分を敢えて子供たちのコーラスにしたのも効果的だね。
2ndアルバムの頃は原色の宇宙服みたいなコスチュームでいかにもニュー・ウェイブのバンドという雰囲気だったが、わずか1年後の3rdアルバムの時はトラッドな服装という変貌を遂げていたのが印象的だったものよ。
「方向転換にも程がある」とツッコまれても仕方ないね。
この時、わずか20歳の若輩者とは思えないリチャード・ジョブソンの老け顔は必見。
おっと、ジャケットにも触れておこうか。
「Dancer accompanies herself with her Shadows(彼女の影とともに踊る綱渡りの踊り子) vers 1919」と題されたマン・レイの作品が使われてるんだけど、同じようなタイトルでもっと有名なカラー作品があるので、この時代の連作のひとつなんだろう。
これは写真作品ではなくAerograph、切り抜いた物体にエアブラシでスプレーして、そのシルエットをキャンバス上に浮かび上がらせるという手法で作られたものらしい。
立体ステンシルというようなもんなのかな?
確かな技術に裏打ちされた、卓越したセンスというものが感じられる作品だな。

前置きで書いた通り、急遽代役で書き始めたROCKHURRAHだったが、さすがに一気にブログを仕上げるだけの時間もなかったし、もう時間切れ。
たった2つだけで申し訳ないが、この続きはまた後日にちゃんと書き上げるつもりだから。

未完だけど今日はここでおしまい。