時に忘れられた人々【34】80年代TV CM編1

【本編で書かなかった三宅一生×ウルトラヴォックスのサントリーCM。高須院長じゃないよ】

ROCKHURRAH WROTE:

ここ数年間はすっかりご無沙汰となってしまったROCKHURRAHのブログ記事だが、実に久々に書いてみようと思う。

書けなくなった原因のひとつは、日曜日に更新するために記事を書く時間が土曜日の短い時間しかないということに尽きるね。

速く文章を書ける能力がないのは前々からわかってたけど、最近は前のように休み前に夜ふかしして、みたいな習慣がなくなったから、余計に集中する時間がない・・・というのが言い訳なのも自覚してるよ。

さて、実に久々な割には、熟考した末の記事になるとは全く思えないくらいに軽くなると、自分でも予想出来るね。

タイトルにある通り、お題は80年代のニュー・ウェイブ・バンドが使われたTVのコマーシャル特集、という誰もがやりそうな内容。
CMに使われるからには比較的知名度の高い音楽に限られるから、ROCKHURRAHなんかの出る幕じゃないよな。

しかも探してみると昔はあんなにあったと記憶してるのに、今ではちゃんとしたCMの映像なんてかなり少ないのが現状なんだよな。 YouTubeの動画を検索してもネットで検索しても「あんな有名なCMが何ですぐに出てこないの?」というくらいに時代が全然変わってしまってることが悲しくなってしまったよ。

80年代のサントリーやホンダとかのCMソングはニュー・ウェイブを割とたくさん使ってたと記憶してるのに、探しても出てこないのがたくさんあったから当初の予定とは大幅に変わってしまった。
パンクやニュー・ウェイブ真っ只中で育った世代としてはこんな現在や未来のことこそNo Futureと思ってしまうよ(大げさ)。

時間もあまりないので無駄な前置きもこの辺にして先を急ごう。

80年代のTV CMの傾向として・・・などと分析してみたわけじゃないが、今の時代のCMと比べるとシンプルなキャッチコピーと映像のみというパターンが多いという気がするよ。
ネット検索もまだない時代だから「今のCMカッコ良かったけど何?」みたいな漠然と心に引っかかるような類いで、また同じCMが流れると短い秒数で注視する。
そういう印象に残る戦略がうまいCMの方が80年代を経験した人にとっては記憶に残ってるんじゃないだろうか。

誰でもそうとは限らないけど、ROCKHURRAHの周りはパンクやニュー・ウェイブな音楽と洋服のデザインやアパレル関係者の交友がほとんどだったから、そういうところで話題になるのはやっぱりニュー・ウェイブな音楽が使われたCMばかりだった。

まずは80年代初頭に花開いたニュー・ロマンティックという潮流の代名詞とも言えるこれ、ヴィサージのスティーブ・ストレンジ本人が登場して話題となったTDKビデオ・テープのCMから。
15秒で横から正面を向くというだけの割とどうでもいい映像で、本人が出てるという以外には特に凝ったところもない。

CM特集の最初がいきなりこれじゃ「80年代CMはカッコ良かったんだよ」などと言っても信じてはもらえないだろうな。
ただ、時代の寵児とまではいかなくても、最初は先鋭的だった英国ニュー・ウェイブのアーティストが日本のお茶の間で見ることが出来る、という点で意義があったんじゃなかろうか。

70年代ロックの時代にグラム・ロックがあったように、80年代にもニュー・ロマンティックと呼ばれていたムーブメントなのか何なのかよくわからない潮流があり、見た目の派手さが子供やシロウトにもわかりやすかったので大いに流行ったもんだ。
多くの人は知ってると思うが、ニュー・ロマンティックは音楽のジャンルではなくて主に見た目に対しての呼び方みたいなものだった。
やってることはグラムの時代と同じようなもので、化粧して着飾ったバンド達の多くをニュー・ロマンティック扱いにするのがこの時代のメディアでは当たり前に行われていた。
やってる音楽ジャンルを超越してニュー・ロマンティック扱いで一括りにされていたという大雑把なもんだったな。
だから代表的ないくつかのバンドでも音楽性はマチマチ、その辺が同時代のポジパンよりは自由度が高かったと言えるだろう。
アダム&ジ・アンツとヴィサージじゃ随分印象も違うからね。

スティーブ・ストレンジによるヴィサージがデビューしたのが1979年で、これがニュー・ロマンティックの始まりの年とされる。
ヴィサージを始める前からビリーズ、ブリッツ(赤坂ではない)という有名クラブのイベントで、たくさんのオシャレ人間を集めてきたのがスティーブ・ストレンジとリッチ・キッズやスキッズのドラマーでもあったラスティ・イーガンだった。

日本でもロンドンナイトとか特定の人々を集めるイベントはあったけど、この2人がやってたのはデヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックなどグラムロックの先達をフィーチャーしたような音楽とファッションの宴だったようで、この辺になるとさすがに実際に行って体験したわけでもないから、想像の域を超えないよ。

スティーブ・ストレンジはその頃から仮装パーティそのもののようなキメッキメの衣装を着て、どの芸能人よりも目立ってたのはわかるが、当時のラスティ・イーガンはパーマのかかったリーゼントみたいな髪型。
リッチ・キッズやスキッズの頃からのトレードマークだったようで、どちらかというとヤンキー顔にしか見えなかったが、おしゃれな人気DJだったなどと書かれているのを読むと「?」と思ってしまうよ。
そんな2人が豊富な人脈で集めたのがヴィサージのメンバーというわけなんだろう。

ヴィサージの実体はマガジン(ジョン・マクガフ、デイヴ・フォーミュラ、バリー・アダムソン)やウルトラヴォックス(ミッジ・ユーロ、ビリー・カーリィ、ロビン・サイモン)、リッチ・キッズ(ミッジ・ユーロ、ラスティ・イーガン)という錚々たるミュージシャンが集まって出来たレコード制作、スタジオでの活動しか(おそらく)してない限定的な音楽ユニットだったようだ。
彼らが本拠地としてたブリッツ前での記念写真がこれね。
上記のメンバーほぼ全てがここに集ってるな。

音楽番組などに登場する時は大抵スティーブ・ストレンジと女性ダンサー2人のみしか出演しない、後ろはカラオケというスタイルでやってたような記憶がある。

音楽とファッションやアートなどの融合はパンク以前から一部ではあったにしても、大々的にファッション=ライフスタイルに特化したのはスティーブ・ストレンジが初めてだったんじゃないかな?と思うよ。
アントニー・プライスの衣装がこれほど映えるイメージ戦略は他にないように感じる。
だからこそのニュー・ロマンティックの代表なんだろうな。

ヴィサージはデビューした時から聴いていて「Fade To Grey」や「Tar」などは好きだったが、このCMに使われている「Night Train」はみんなが大好きで聴いてた1stアルバムではなく1982年の2ndアルバムからの曲。
前にこの記事でも書いてたな。
その時も書いてたがこのCMの部分があんなダンス・ナンバーのサビ(間奏?)の部分だけだったとはレコードで聴くまで知らなかったよ。
通販でもう売ってしまったが、ちゃんと日本盤シングル持ってて「TDKビデオテープCF使用曲」と明記してある。
下のビデオがフル・ヴァージョンね。

前にも色々書いたがROCKHURRAHの青春時代はカセットテープ全盛時代で、レコードをそのまま全部聴くよりも、好きなバンドの好きな曲をコンピレーションしてレコードから録音するという行為が何よりも好きだった。
録音には何よりもこだわってて、ライン録りする時の音量レベルが同じくらいにならないと気がすまない。
音量を均一化するノーマライズなんてアナログ録音にはなかったから、リアルタイムな手作業で気を使っていたものよ。
別に機材や音質にこだわってたわけじゃなくて、曲順や曲のつなぎ、音量が一定でありさえすれば良かったので、いわゆるオーディオ・マニアとは程遠いね。

カセットテープにもこだわっていて、ソニーやTDK、マクセルにBASFとか様々なものを試していたな。
ちょっと高価なクローム・テープとかも含めて部屋の中に山ほどカセットテープの在庫があったもんだ。
これまた音質にこだわって、じゃなくて何となくのデザインとか曲目を書くところがいっぱいあるかどうか、とか変な部分のこだわりね。
この時代は手書きで曲目やアーティスト名を書き込んでたんだけど「最後の数曲、書き込むスペースがない!」なんてことになったら今までやってきた録音の苦労まで台無しになるような失望感(大げさ)を味わっていたよ。
もしかしてちょっとバカなんじゃない?と思えるほど。

時代がもう少し後になって、パソコンとか買うよりもずっと前にワープロ買ったのも、自慢のコンピレーション・カセットテープのレーベルを作ったり、解説まで書いた小冊子を作って友達にプレゼントしたり、そういうのが一番の目的だったな。

そこまで妙なこだわりを持ってたくせにビデオテープには特に何のこだわりもなかったのが不思議。
ヴィサージがCMやってたからTDKの良いグレードのテープを買ったりはしてなかったなあ。
映像と言うよりは音楽が主な趣味だったんだろうな。

こっちは同じ2ndアルバムに収録の「Whispers」、この曲もCMに使われててどうやら日本盤だけのリリースしかされてないようだ。
たかが少しの期間だけ流すようなCMで2曲もシングル化するとはポリドールも太っ腹。
日本で売りたくて仕方なかったほどヴィサージ推しだったのかね?
映画「去年マリエンバートで」と全く同じロケ地を使っての撮影で力が入ってるね。
ミュンヘンにある宮殿だそうだから、行って撮りさえすりゃ絵にはなるだろうけど、企画が通って実際に手配したりの数々の面倒なことを考えると、作った人々の熱意に頭が下がるよ。。
このCMが日本のみなのか海外でもTDKのビデオテープのCMやってたのかは不明だが、この時代のCMは本当に「たかがCM」じゃないんだよな。

次はとっても有名なCMソングとして君臨するカルチャー・クラブの「Mystery Boy(1982)」だ。

カルチャー・クラブもニュー・ロマンティックとされるムーブメントの中で出てきたバンドだったが、ブリッツというクラブ出身としては最も大成したバンドのひとつだったな。
別にブリッツに出入りしてたわけじゃないから他に誰がいたかハッキリわからんが。
ボーイ・ジョージがカルチャー・クラブでデビューする前、1979年当時の写真がこれだけど、こういうパンクな見た目だった時もあったんだね。

ニュー・ロマンティックの括りに入るバンドの多くが、エレポップ、シンセポップというシンセサイザーを多めに使った無機的な音楽を取り入れていたが、カルチャー・クラブはレゲエやブラック・ミュージックのテイストも取り入れてて、そこがボーイ・ジョージの優しい歌声とマッチしてて個性を出していた。
ファッション的にもこの時代を象徴する存在だったもんね。
スティーブ・ストレンジと比べて派手さでは負けてなかったけど、ボーイ・ジョージ風の方が髪型とメイクで何とかなるし、服装もそこまで高価そうではない、ということで庶民でも真似がしやすいという点も人気の秘訣だったかも。

イギリスは世界の他の国よりは開けていたとは言っても、人種的な差別や性的マイノリティなどの問題をまだ大っぴらに唱える事が出来ないような微妙な時代。
そういうところに真っ向から戦うというよりはこういう切り口で異を唱えるという姿勢なども評価されてるけど、ROCKHURRAHは音楽にあまりその手の語り方をしたくない姿勢なので、この辺の事は誰か他の語り手に任せるよ。

ただ軽薄で薄っぺらいみたいに一律に語られてるような80年代ニュー・ウェイブでも、社会を微動させるくらいの何らかの気概は持っていたということだね(いいかげん)。

ROCKHURRAHはカルチャー・クラブのアルバムは一度も買ったことないけど、この「ミステリー・ボーイ」の日本盤シングルだけは小倉(北九州)の松田楽器(80年代当時)で買ったのを覚えてる。
この頃は好き嫌いとか抜きにして、ニュー・ウェイブっぽいシングルだったらかなり何でも買ってたもんな。
この当時の福岡、天神に行けば輸入盤レコードが手に入ったけど、小倉は駅前にプレハブ小屋みたいな輸入盤屋しかなかったから、文化面でかなりの差があった。
それでもROCKHURRAHは無理して福岡までレコード買いに行ってたけど、地元じゃ大したのは手に入らなかったから、屈辱的ではあるが日本盤でリリースされたレコードで情報収集をしてたというわけだ。
このすぐ後くらいにはやっと上京して東北沢や世田谷代田に住んで、好きな輸入盤屋巡りも出来たんだけど、今度はレコード買う金もないくらいにしばらくは極貧暮らしをしてたもんだ。

この曲が日本でだけリリースなのかはハッキリ知らないが、彼らのデビュー・アルバムの日本盤にはこの曲が収録されていて、英国盤には収録されていない。
たぶんイギリスではあまり知られてなかった曲なのかもね、名曲だけど。

このCMはカルチャー・クラブの曲が使われただけで、ヴィサージのように出演してたわけではない。
タカラCANチューハイなら本人が出演するCMがあったんだけど、そんなにファンでもなくて書ける逸話もないからこっちの方にしたよ。

「火がある、人がいる。」というキャッチコピーで、ダブルサイズ5340円で売られてたらしいサントリー・オールドのウィスキー。
そんな高かったっけ?と思ってしまうよ。
個人的には金を出して買ったのは1回くらいで、実家にいる時は親が御歳暮で貰ったのを勝手に飲んでたもんだ。
この時代の居酒屋、パブなどと言われてた店に行くとボトルキープとかでオールドやホワイトは定番だったけど、カッコつけて当時ではあまり知られてない酒やカクテルを頼んだり、愚かな若者だったなあ。

ちなみに今回のと同じ時代くらいのサントリーのCMで「水がある、氷がある」という夏ヴァージョンのキャッチコピーがあり、そのCM音楽をやったエレクトリック・ギターズの「Beat Me Hollow(アイスでビートタイム)」というのを特集しようと思ってたんだが、このCMがどうしても見つからず、仕方なくメジャーなカルチャー・クラブの方にしたという知られざる経緯があったのだ。

お次もサントリーのCMなんだが、実はROCKHURRAHはその商品もCMも見たことがないという代物。
1983年に発売されたQという名前のウィスキーで、曲はデュラン・デュランの大ヒット曲「Is There Something I Should Know?」。
日本では1行目の歌詞を取って「プリーズ・テル・ミー・ナウ」という邦題がついてるが原題はスラッと言えないもんな。
ROCKHURRAHもこのタイトルでしか知らなかったよ。

上に書いたニュー・ロマンティックの最大のスターであるデュラン・デュラン本人たちが出演してるというのが驚き。
しかも首だけ大きな操り人形風の演出で人形たち相手にライブを行なっているという映像。
途中で「Q」という合いの手みたいなのが入るがもちろん原曲にはないCMだけのアレンジ。

デヴィッド・リンチが監督したデュラン・デュランの「アンステージド」というライブ映画をだいぶ昔にSNAKEPIPEと観に行って、そこでバンドのイメージとは大きく離れた、ぬいぐるみが歌の間に突然出てくるという変な演出を見て笑ってしまったけど、本人たちは案外カッコつけてるよりはこういうお茶目なのが好きなのかもね。

1978年に結成して81年にデビューしたデュラン・デュランはアーティフィシャルなヴィサージのイメージとは違った、ちゃんとした演奏力を持ったバンドとしての形態でニュー・ロマンティックの中心的な存在、大スターとなった印象があるな。
彼らはロンドンとリヴァプールのちょうど中間地点になるバーミンガム出身で、結成からレコード・デビューするまでに時間がかかった事から、勝手に割と苦労人の集まりじゃなかろうかと推測するけど、実際はどうなんだろうか?
実績のあるミュージシャンのサポートを得て、すぐにニュー・ロマンティック界のスターとなったヴィサージに比べると紆余曲折があったわけだが、初期の頃はメンバーの入れ替わりが激しく、みんなが知ってるメンバーになるまでに2年を要しているんだね。

公式デビュー前には後にTin Tin、ライラック・タイムで知名度を得るスティーブン・ダフィもヴォーカリストとして在籍していたらしいが、当たり前だがその後のデュラン・デュランとは違ったもの。
個人的には後のヴォーカリスト、サイモン・ル・ボンと比べると見た目はスティーブン・ダフィの方が良かったとは思うけど、デュラン・デュランの曲をもし歌ってたら?と思うとやっぱりしっくりはこないという気がする。
結果としてサイモン・ル・ボンに決めて良かったね。
デビュー後の快進撃は誰もが知る通り。

ROCKHURRAHはデュラン・デュランを自分で買ったことはないが、彼らの1stアルバムは兄が友達から借りたのを返さないままずっと実家にあったので、我が物のように扱っていた事を思い出す。
だから「Girls On Film」や「Planet Earth」などの初期の曲だけがROCKHURRAHにおけるデュラン・デュランの印象であり、後の時代にヒットしたからもちろん知ってる曲もあるが、確かにニュー・ウェイブを感じたのはこの1stのみだった。

だからデュラン・デュランに対しての思い出とかも特にはないんだけど、またまた北九州の小倉での事を思い出してしまった。

パンクやニュー・ウェイブに目覚めてしまったROCKHURRAHは、勉強しなかったからなのか素養がなかったからなのかわからないが、大学受験に落ちて予備校通いをしていた。
とは言っても勉強してたわけではなく、この記事「昔の名前で出ています、か?(其の四)」にも書いたような生活をしてただけ。
スクーターに乗ってたから、機動力は今この歳になるまでを含めてこの頃が最大だったという気がする。

予備校の近くに定食屋があって、そこで3人と意気投合して、ROCKHURRAHを加えた4人組でよく行動を共にしていたもんだ。
ROCKHURRAHがPILのTシャツを着てたのに声をかけてきた隣の席の男とその仲間たち、という感じがきっかけで音楽の話をするようになったのだ。
共通点は服装の好みが似ていた事とみんなニュー・ウェイブが好きだったという点だった。

上のリンク先の記事にある通り、魚町の中にあったコーヒー・オオニシも4人のたまり場にしてて、ROCKHURRAHはそこでバイトをして店の終焉にも立ち会った当事者でもある。
ROCKHURRAHの青春(小倉編)のピークがこの頃だったな。

4人組の一番年下だったW井とは特に2人だけでつるんでたし、ニュー・ウェイブのレコードを貸し借りしたり、この子の家に泊まって大学受験も行ったもんだ。
彼はベースを弾いてるらしかったので、ベースのカッコいいニュー・ウェイブとしてウルトラヴォックス(「Slow Motion」の頃)やデュラン・デュランがお気に入りで、ROCKHURRAHはストラングラーズやマガジンを教えたりしていたな。
あまりマイナーなものは受け付けてくれなかったから弟子にはならなかったけど。

オオニシで働いてた全く笑わない愛想のないウェイトレスがいたんだけど、その人のお姉さんが有線のリクエスト受け付けをやってたからしょっちゅう上記のバンドなどをリクエストしてたのも思い出す。
お姉さんはとても愛想良かったけど、店には一度も来なかったから声だけの人。

ROCKHURRAHは高校からの友達も何人か同じ予備校に通っていたし、予備校で知り合った田川や行橋の不良どもともつるんでたんだが、趣味が近い3人の方とより親しくなってしまったから、その辺の友達変遷はデュラン・デュランの初期メンバー並みにかなり激しかったな。
結局はみんなその場限りの友達で、その後ずっと付き合いをしてるような友達もいないし、ROCKHURRAHは人との付き合いがいつも希薄だから、友達と言える友達もいない人生なんだろうな。
関係ないが上の一文の中に友達という言葉を4回も使ってしまった。
実に久しぶりのブログだが文章が破綻してるところだけは健在だな。

というわけでデュラン・デュランについて特に語ることもなかったので、字数だけは稼げたが、どうでもいい個人的な話ばかりになってしまったよ。
長くなってしまったので今日のCM編は一旦ここで終わりにしよう。
続きは当然やらないといけないけど、果たして書けるんだろうか?
自分で不安になってしまうよ。

それではこれにて罷り申します(古文で別れの謙譲語)

ふたりのイエスタデイ chapter28 / The Velvet Underground

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【ウォーホルのバナナが描かれた1stアルバム】

SNAKEPIPE WROTE:

先週、ROCKHURRAHが書いた「残暑見舞2025」にあったように、お盆時期から約10日程手術のために入院していたSNAKEPIPE。
日本一(世界一かも)と言われている名医に執刀してもらい、無事に退院したんだよね。
手術の翌日から立って歩けたのにはびっくり!
そして退院時も、迎えに来てくれたROCKHURRAHとともに、自分の足で帰宅できて良かったよ。
皆様、お騒がせしましたが、ここにSNAKEPIPEの復活を宣言いたします!(笑)
報告に続いて、通常のブログに戻ろうか。

当ブログのカテゴリー「ふたりのイエスタデイ」で、前回書いた「ふたりのイエスタデイ chapter27 / RUN DMC」について、ご指摘を受けてしまった。
RUN DMCについては2020年2月に「ふたりのイエスタデイ chapter17 /Sigue Sigue Sputnik&RUN DMC」として記事にしている、というもの。
6年前に書いたことを失念していたとは!
ダブった記事を載せてしまい、深くお詫び申し上げます。
恥ずかしいミスだね。(笑)

気を取り直して、「ふたりのイエスタデイ」を書いていこう。
今回はヴェルヴェット・アンダーグラウンドについてだよ!
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(The Velvet Underground)は、1964年にニューヨークで結成されたバンド。
ロック史上、最も革新的で影響力のあるバンドのひとつとして知られているんだとか。
画像中央のルー・リードが作詞したのは、ドラッグ、セクシュアリティや暴力など、それまでは扱われなかったテーマというのが特徴なんだって。
ポップ・アーティストのアンディ・ウォーホル(画像左から2番め)が、デビューアルバムのプロデュースとアルバム・ジャケットを手がけ、アートと音楽の融合という点も画期的だったという。
ウォーホルが連れてきたとされるモデルのニコ(画像左)が1stアルバムのみヴォーカルとして参加している。
ヒップでクール(死語)な人たちが集まって、バンドやったってことだね。
SNAKEPIPEはリアルタイムで聴いていたわけではないので、伝聞としてお伝えしているよ。(笑)

ここからが思い出につながる話ね。
SNAKEPIPEの父親は、数回、写真展を開催したことがある。
展覧会場ではBGMを流すことができたので、SNAKEPIPEと長年来の友人Mが音楽を担当した。
手持ちの音源をいくつかピックアップし、父親に聴いてもらう。
その中で「これ、いいね!」と父親が選んだのが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Sunday Morning」だった。

精神世界的な映像だね!(笑)
ゴッホの絵画作品みたいな「ぐるぐる」が出てきて、とてもアートな雰囲気。
2017年にアップされたようなので、当時は観ていない動画だよ。
デビュー・アルバム「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ」を聴きながら、父親にアンディ・ウォーホルが関係している話を伝えると、とても嬉しそうに「これに決めよう!」と瞬時にBGMが決定した。
SNAKEPIPEはCDを所持していなかったので、父が購入し、展覧会場で使用することになった。
その時のCDを今でも所持していて、愛聴しているよ!(笑)

父親の展覧会場で、SNAKEPIPEは受付に立っていた。
ふらっと立ち寄った外国人(欧米人)から英語で尋ねられる。
「この曲のタイトルは?」
展覧会のテーマにした「Sunday Morning」だったので、CDジャケットを見せて説明する。
「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、OK!サンキュー!」
暗記するように何度もバンド名をつぶやき、お礼を言って去っていった。
写真展についてのやり取りをしているのかと、父親が駆け寄ってきたけれど、質問が音楽だと分かり落胆していたっけ。(笑)

NHKで再放送されていた「ヴェルヴェットの奇跡 革命家とロックシンガー」を観る。
1989年にチェコスロバキアが革命により、共産党政権が崩壊し民主化が始まる。
チェコの反体制派から熱烈な指示を受けたのが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの1stだったという。
後にチェコ大統領となるヴァーツラフ・ハヴェルが偶然手にしたレコードが革命の始まりだったとされ、「ヴェルヴェット革命」と呼ばれているという。
「音楽が歴史を変えた」ドキュメンタリーで、とても興味深かったよ!
大統領になったハヴェルが衝撃を受けたのが「I’m Waiting For The Man」だったという。

ピンボケで、ズームのスピードが速いため、かなり見づらい動画だよ。
SNAKEPIPEは洋楽を日本盤で買うことがほとんどないので、対訳が載っている解説を読んだことがない。
「I’m Waiting For The Man」はどんな内容なのか調べてみようかな。

マン(The Man)=麻薬の売人に会うために、26ドル握りしめレキシントン通りの125番地に向かう俺。
ここは白人の俺にとって居心地が悪い場所。
好奇の目で見られたり、何をしに来たのか探られてしまうからさ。
気にせず「マン」を待ち続けて、ようやく「マン」がやってくる。
待たされた挙げ句やっとドラッグにありつき、安心して帰路につけたよ。

少しSNAKEPIPEの脚色が入っているけど、歌詞を要約するとこんな感じみたい。
タイトルは「売人を待つ」というスラングで、当時の26ドルは、今だと200〜250ドルくらい。
これはヘロインの相場だったらしいね。
まるでスナップショットのように街の様子を切り取り、ドラッグをテーマにした曲は斬新だったんだね。
ヒッピーが提唱する「愛と平和」とは一線を画してるよ。
まさにバンド名通り「隠れた世界」や「社会の裏側」を表現していることが分かるね。

ROCKHURRAHがデビュー・アルバムの中で好きな曲は「Venus In Furs」だって。
タイトルはマゾッホの小説「毛皮を着たヴィーナス」から取られている曲なんだね。
ジョン・ケイルのエレクトリック・ヴィオラが印象的だよ!
ROCKHURRAHはジョン・ケイルが好きで、レコードを数枚所持しているという。

こちらもピンボケの粗い画像だけど、当時の雰囲気が感じられるよね。
ウォーホルが関わったことでアートと音楽が融合されたことは前述したけれど、文学的要素も加わっているよ。
80年代日本でバンド名に「マダム・エドワルダ」と名付けたり、「ジュネ」を名乗ったりするのも同じ傾向だよね。(笑)
文学と音楽とファッションとアートなど、複数の要素を「たしなんで」いたのは、80年代の共通項だったのかもしれない。
SNAKEPIPEもROCKHURRAHも然り、だからね!

2023年3月に「合田佐和子展」を鑑賞し、ルー・リードのアルバム・ジャケットを手がけていたことを知る。
合田佐和子はかねてよりルー・リードのファンで、1975年に来日した際、インタビューをしたという。
気難しいルー・リードと打ち解け、1977年に発売されたベスト盤(日本盤)アルバム・ジャケットの依頼を受けた話が紹介されていたっけ。
合田佐和子が出会った時には、すでにヴェルヴェット・アンダーグラウンドは解散していて、ソロ活動していたんだね。
ルー・リードについて調べていたら、2008年に前衛音楽家のローリー・アンダーソンと結婚していたことを知ったよ。
今頃驚くのは、遅過ぎだよね。(笑)

今回はヴェルヴェット・アンダーグラウンドにまつわる思い出話と曲の紹介をしてみたよ。
曲を聴いたりにおいをかいだりして、ふと昔の記憶が蘇ってくることがあるよね。
やっぱり歳だからかな?(笑)

ふたりのイエスタデイ chapter27 / RUN DMC

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【今でも心躍るシンプルなロゴ・マーク】

SNAKEPIPE WROTE:

ふたりのイエスタデイ」では、ROCKHURRAH RECORDSの思い出にまつわる「よもやま話」を紹介している。
今日は1980年代後半にSNAKEPIPEが夢中になっていたヒップホップ・グループ、RUN DMCについて書いてみたいと思う。
RUN DMCの表記がいくつかあるようだけど、当ブログではRUN DMCで統一するのでよろしくね!

まずはメンバー紹介から。
画像左からMCのRunとDMC、DJのJam Master Jayの3人チームなんだよね。
グループ名はMC2人の名前から、つけられていることが分かる。
RUN DMCとして活動を開始したのが1982年だという。
1984年には1stアルバムを発売、1985年に2nd、1986年には3rdアルバムを出している。
1stアルバムから50万枚を売上げ、ゴールド・ディスクを獲得したというから、最初から成功してるんだね。
2ndは100万枚(プラチナ・ディスク)、そして3rdは「史上最も売れたラップ・アルバム」として認知される。

それが「Raising Hell」なんだよね!
それまではPUNKやニュー・ウェイヴを聴いていたSNAKEPIPEも、RUN DMCに魅了されてしまった。
当時のNOWな人達は、こぞってヒップホップへ移行していたんだよね。
藤原ヒロシと高木完はタイニー・パンクスを結成し、レコード・レーベル「MAJOR FORCE」を設立していた。
そのレーベルから出た「建設的」や中西俊夫のTYCOON TO$Hのアルバムも持ってたなあ。(笑)
RUN DMCの曲だけではなく、ファッションにも注目が集まっていたよ。
カンゴールの帽子、アディダスのジャージやスニーカー、太いチェーンのネックレスなどが大流行!
SNAKEPIPEもアディダス着て、太いゴールド・チェーン着けてましたとも。(笑)

その頃、RUN DMCの来日が決定!
1986年12月20日、場所はNHKホールだったと検索して判明。
SNAKEPIPEは長年来の友人Mと共に会場入りしたよ。
40年前のこととは、怖いね。(笑)

日本公演前の1986年7月にシングルとして発売された「Walk This Way」に熱狂した人は多かったはず。
ロックとヒップホップの融合!
そしてエアロスミス本人が登場するMVも大人気だった。
サンプリングというのは、DJが気に入ったフレーズを勝手に使用するものと思っていたけど、違うのかな。
「Walk This Way」の場合は、本家エアロスミスのお墨付きだから、著作権等全く問題ないよね。
コロッケが美川憲一のモノマネしてる後ろから「ご本人登場」する、みたいな公認ってことだもんね。(例えが古い!)

1986年のNHKホール公演で、観客は全体的に大人しかったように記憶している。
ヒップホップのノリ方が分からないから、仕方ないよね。
SNAKEPIPEと友人Mは、通路に出て踊っていたっけ。
ツバキハウスで踊っていたように、ピョンピョン飛び跳ねたものよ。
他の踊り方知らなかったし。(笑)

SNAKEPIPEの記憶違いでなければ、別の年にあと2回ライブに行っているはずなんだよね。
1989年12月に再びNHKホールで公演をした記録は残っているようなので、多分これにも行ったんだろうな。
写真もパンフレットも何も残っていないので、はっきり言い切れないのが辛いけど。(笑)
そして最後に行ったのは、関内辺りの小さいライブハウスだった。
友人Mともう一人友人Sの3人で出かけたんだよね。
横浜界隈の地理に疎いので、わざわざタクシーで会場まで行ったっけ。
「お客さんどこから来たの?」
「そんなこと聞くな!」ってね。
タクシー運転手が地名の菊名にかけたダジャレを言ってきたけれど、3人でキョトンとしていた。
当時は千葉県民だったから、横浜近辺の地名を知らなかったからね。(笑)

1989年か1990年に行ったライブハウス(ディスコ?)は、割と小さめだった。
お客さんの半分くらいは黒人で、ステージとの距離が近かったよ。
長年来の友人Mに覚えているか尋ねると「伊勢佐木町のOXUM TRAP(オクスン・トラップ)じゃなかった?」と即答され、びっくり!
観客の中にZOOのヒロとルークもいたという話まで出てきたよ。
昔のことをよく覚えていて、素晴らしい記憶力だよね。(笑)
かつてOXUM TRAPが存在したことは確認できたけれど、RUN DMCの公演についての情報は見つけられなかった。
友人MとSNAKEPIPEの記憶だけが頼りだね!

少し待たされ、ついにRUN DMC登場!
興奮し過ぎて踊りまくり、床に転倒したSNAKEPIPE。
その時に演奏されていた曲が「Mary, Mary」。

当時のSNAKEPIPEはヒップホップ系か、ガンズ・アンド・ローゼズのアクセル・ローズを真似たロック系の服装だった。
バンダナ巻いた上にキャップを後ろ前にかぶったりね。(笑)
OXUM TRAPに行った時はガンズ系の服で、革ジャンにレザーのブーツを履いていた。
その靴で滑って転んでしまったのである。
「ブレイクダンスしようと思ったんでしょ?」
駆け寄るなり、尋ねてくる友人M。
ブレイクダンスなんて踊れないよ!(笑)

40年近く前のことが、まるで昨日のようで、とても懐かしい。
書いてるうちにノリノリになってきたSNAKEPIPE。
もう1曲載せさせてもらおう!
「It’s Tricky」もお気に入りなんだよね。

2002年にジャム・マスター・ジェイが射殺されてしまう。
このニュースを知った時はショックだったなあ!
RUN DMCは、この時点で活動休止し事実上の解散となってしまう。
ジェイを撃った犯人は、18年後の2020年に逮捕されたという。
ドラッグ絡みの事件だったこと、ジェイが37歳で亡くなったことを知る。
RUN DMCの栄光と転落が浮き彫りになり、悲しくなるね。

当時はレコードで、今ではCDで愛聴しているRUN DMC。
ジャイの不在はとても残念だけど、SNAKEPIPEは今でもファンなんだよね。
その後のヒップホップに、ファッションを含めて多大な影響を与えたグループだと思うよ。
ヒップホップが好きだった頃は、他にもLL・クール・JやPUBLIC ENEMYもよく聴いてたなあ。
今でもCDは全て所持してるよ!(笑)

次第にSNAKEPIPEの好みは変化していく。
ニュー・ウェイヴからPUNK、そしてヒップホップ。
次に傾倒した音楽ジャンルは、何でしょう?
答えはまたいつか、書いてみようかな。(笑)

ニッチ用美術館 第8回・・・の続き

【こないだよりはマシだけど代わり映えしないタイトルバックだな】

ROCKHURRAH WROTE:

この前はSNAKEPIPEが体調不良で休みになってしまったが、その翌週には何とか熱も下がりブログも書けるようになった。
・・・などと書いてたら、木曜日に予想もしてなかった大変不慮の事態が起きて、SNAKEPIPEはしばらくの間、お休みとさせていただくことになった。

高熱とは別件でSNAKEPIPEは医療機関の検査を受けてたんだが、実はその両方に関係があって、年末からの不明熱の原因が様々な検査の末、何とか特定出来た。
そこで突然に緊急入院という事になり、当日のうちに病床の人となった、というのが大変不慮の事態というわけだ。
悪いところはあったけどまさか入院する気など全くなかったので、これには2人ともビックリ。
全ての予定とかもキャンセルして病気の治療に専念する事になったのだ。
ただ、入院すると思ってなかったくらいだから、SNAKEPIPEは寝たきりというわけではなく、その前と比べて特に変わった様子もないのがまだ良かったところ。
早く元気になって欲しいと願いながらROCKHURRAHもSNAKEPIPEも頑張るよ。

こないだは時間切れで、たった2つしか書けなかった「ニッチ用美術館」だが、その続きが気になる人はいないとは思うけど、残りを書いてゆこう。
自分でも気づいてるけどROCKHURRAHの文章はやたら「だが」「けど」が多いな。
「たらればならぬだがけど」、全部ひらがなで書くと復活の呪文(大昔のゲームはセーブ機能がなかったので、長いパスワードを紙に書いて記録してた)みたいだな。
こういう悪文を特徴や個性とする気も全く無いけど(ほらまた「けど」)、センテンスが長すぎるのがROCKHURRAHの難点だと思うよ。

今回のテーマはバンドのメンバーが影響を受けたのか、レコード・ジャケットのアートワークを作る人が好きなのかは不明だけど、絵画作品をそのままジャケットにしてしまったものをROCKHURRAHの目線で探してみたよ。
2週間ほど前の続きね。

ROOM3 谷克多の美学

「読めん!」じゃなくて読める漢字ばかりだけど、これは一体?
中国語では让•谷克多と書いてジャン・コクトーと読むらしい。
言われてみればなるほど、という感じがまるでしないし、人名中の「谷」部分がどこにも当てはまる気がしないのはROCKHURRAHだけ?
克多は「こくた→コクト」みたいなニュアンスなのかね。
让に至ってはROCKHURRAHには想像もつかない漢字だよ。
こんなのがスラスラと読める人、いるんだろうか?

ジャン・コクトー(1889-1963)は言うまでもなくフランスの著名な芸術家。
詩人として特に有名だが、他にも小説、評論、脚本、絵画、デザイン、映画、音楽など様々な分野で活躍し「芸術のデパート」とまで言われる才能に溢れた人物だ。
数多くの人が好きな「美女と野獣」でも知られてるが、コクトーが原作なわけではなく、最初に実写映画にした事で有名。

このように芸術愛好家だけに支持されたわけでなく、大衆的な分野でも成功を収めたアーティストがそれ以前の時代にはあまりいないように感じるので、後の時代のマルチメディアみたいな元祖でもあったのかな、と素人のROCKHURRAHは思うよ。
活躍の幅が大きすぎて、全ての芸術分野に1人でリスペクト出来る人材はなかなかいないのが現状だと思うが、なぜかコクトー信者は彼の全てを理解してみせようという壮大な気宇(気構え、心の広さ)に満ちた人ばかり。

そんな熱烈なコクトー愛に満ち溢れたのがこの人、ビル・ネルソンだ。
中国語では昼寝損と書く(大ウソ、しかも程度が低い)。

70年代ブリティッシュ・ロックの中堅バンドとして、知らない人も多かったバンドにビー・バップ・デラックスがあった。
1974年に鮮烈なドクロギターのジャケット「Axe Victim(美しき生贄)」でメジャーデビューした時はグラムロック寄りのハードロック、あるいはプログレッシブ・ロックとのミクスチャーみたいな位置にあったが、このバンドのギタリストでヴォーカリストだったのがビル・ネルソンなのだ。

ビー・バップ・デラックスはデヴィッド・ボウイのような音楽とクイーンのような美しい旋律のロック、それにSF的な未来観を重ねたような音楽で、その時代のロックの中では少し異質なものだった。
ギターを弾きまくってたのは3rdアルバムくらいまでで、その後はキーボードやシンセサイザーとのアンサンブルを重視した独自の未来派ロックを展開していて、後のニュー・ウェイブの先駆け的なバンドとして知られている。
EMIハーヴェスト・レーベルからレコードを出してて、日本でも確か全作品がリリースされてたはず。
がしかし、デビュー当時の日本における洋楽の流行はハードロックとかプログレとか、割と典型的なものばかりがもてはやされるような時代。
グラムロックにしては化粧っ気や毒々しさがないしハードロックと言うにはそんなに荒々しくもない、かなりポップな部類のロックだったにも関わらず、そのどっちつかずの音楽性ゆえに日本ではあまり知られてないバンドのひとつだったかも。
EMIハーヴェストのWikipediaでも「主なバンド」の項目に名前が載らないくらいの知名度だったのが悲しい。

スティーブ・ハーリィーのコックニー・レベルもブライアン・フェリーのロキシー・ミュージックも、その時代のちょっと異端派に挙げられるが、その辺の音楽を聴いて影響を受けた世代が少し後のパンクやニュー・ウェイブへと繋がってゆく、というのが英国音楽の流れのひとつだと言えるよ。

ビー・バップ・デラックスの最後のアルバムはすでにニュー・ウェイブ時代の1978年だから、直接的にニュー・ウェイブに影響を与えたわけではないが、ビル・ネルソンの曲作りは早くから昔のロックというよりはニュー・ウェイブっぽい部分もあったと思う。
ビル・ネルソンのギター・プレイの影響を受けてると思われるのがスキッズ、ビッグ・カントリーのスチュアート・アダムソンや限りなく誰も知らないバンドに近いスコットランドのゾーンズ(スキッズのラッセル・ウェッブも在籍してた)とかオンリー・ワンズとか、有名無名に関わらず彼のようなギターを弾きたいと思うギター小僧は結構いたと思うよ。
ジミヘンやクラプトンみたいなギターじゃニュー・ウェイブにはならないからね。

1978年にビー・バップ・デラックスを解散させたビル・ネルソンが向かったのは、かつて自分が影響を与えたニュー・ウェイブ市場だった。
パンク、ニュー・ウェイブの誕生はこの時代の既存のミュージシャンにとっては新しい刺激でもあったに違いなく、後の世代から逆に影響を受けて方向転換したバンドやミュージシャンも数多くいたというわけだ。
ビル・ネルソンもその1人で、ビー・バップ・デラックスとは違う激しい方向性で初期ウルトラヴォックスやXTCのような勢いのあるエレクトリック・パンクとでも言うべきバンドを新しく始めた。
ビル・ネルソンズ・レッド・ノイズという素晴らしいバンドを1979年に始めたが、これに狂喜乱舞して心底からのめり込んだのが当時のROCKHURRAH(少年)だった。
この辺のことについては当ブログでも記事を書いてるので参照してね。

その後、バンドよりも宅録みたいな、よりプライベートな音楽制作にシフトしてゆき、1981年からはソロ名義に変わって、EMIからマーキュリーに移籍したりして、いわゆるエレポップ、テクノポップという分野で業績を残しているのが80年代のビル・ネルソンだった。

さて、ようやく本題だがビル・ネルソンとジャン・コクトーの関係について。
ビー・バップ・デラックスの2nd「Futurama(1975)」でも「Jean Cocteau」という美しいギターの名曲を書いていて、コクトー好きなのはわかってたが、自身の持つインディーズ・レーベルもコクトー・レコードにするほどの傾倒ぶり。
ほぼ自分のレコード出すためにあったようなレーベルだが、後に「I Ran」で一世を風靡したア・フロック・オブ・シーガルズもこのレーベルの出身だ。
冒頭のカモメのさえずりのようなキュンキュンという音は、ビー・バップ・デラックスの「Sister Seagull」でもファンにはおなじみの効果音ギター。
ビル・ネルソンが伝授したのか技を盗んだのかは知らないが、フロック・オブ・シーガルズもこの音を効果的に使いこなしているな。
あとはビル・ネルソンの実弟でレッドノイズでも重要なサックス・プレイヤー、イアン・ネルソン(中国語では慰安寝損、またまた大ウソ)の在籍したフィアット・ルクスとか、33回転なのか45回転なのか不明の変な曲をリリースしてたラスト・マン・イン・ヨーロッパとか、スキッズのリチャード・ジョブソンによる詩の朗読とか、高橋幸宏のソロとか、彼と親交のあったミュージシャンという内輪ばかりで固めたレーベルがコクトー・レコードだったと言える。

ジャン・コクトーは先にも書いた通り、芸術的なあらゆる分野で才能を見せたすごい才人なんだが、この人の書く絵やデッサン、ドローイングも独特の個性で素晴らしいもの。
サラサラっと描いた落書きのようなものがとてもうまくて、ちゃんとした素晴らしいアートなデザインになってるところがすごい。
彼の影響を受けたイラストレーターも数多くいたに違いない。
80年代のパンクでニュー・ウェイブな漫画家、奥平イラも一時期コクトーみたいなキャラクターで描いてたな。
コクトー・レーベルのロゴマークやビル・ネルソンのレコード・ジャケットもコクトー本人なのか似せて描いたのかは不明だけど(そこまで詳細に調べる余裕がなかった)、コクトーっぽいものが多数。
ROOM3の冒頭を飾ったレコード・ジャケットもまさにコクトー的な一枚だね。
コクトー・ツインズとかコクトーの名を冠したバンドもあったけど、ビル・ネルソンほどコクトーに心酔して徹底したアーティストは他にないと思えるよ。

ビル・ネルソン自身も、レッドノイズの時代から多くの曲で自分の専門であるギターと歌以外のパート、ベースにドラムにシンセサイザーなどもこなし、プロデュースも出来る、自分のスタジオもレーベルも持ってる。
まさに1人で何でも出来るマルチな才能を発揮していて、その辺が自分と多才なコクトーを重ねてたんじゃなかろうかね?
悲しいかな、誰も彼の事を「音楽のデパート」とは評してくれなかったが。

「Flaming Desire」はマーキュリー移籍後のアルバム「The Love That Whirls(1982)」に収録、シングルにもなった代表曲と言っても良い。
ドイツ表現主義の映画やジャン・コクトーの「詩人の血」あたりを思わせる雰囲気のモノクロ映像、彼の美学が集約された素晴らしい作品だと思うよ。
レーベルもメジャーだし音楽の質もヴィジュアルも、もっと売れてもいい活躍をしてもおかしくないアーティストなのに、意外なほどビデオは少なく、この曲とEMI時代の「Do You Dream In Colour?」くらいしか見たことないので動いてるこの時期の彼を見れる貴重な映像だな。

ちなみにこの「The Love That Whirls」には地元ヨークシャーの劇団による公演「美女と野獣」にビル・ネルソンが音楽をつけたという全曲インストのサントラ・アルバムまでおまけに付いててお値段そのまま。
1981年くらいから「カリガリ博士」のサントラ作ったり、ポピュラーな音楽から離れた現代音楽やアンビエントっぽいインスト作品もつくるようになって、むしろコクトー・レコードはそっちの膨大なリリースの方が多いんじゃなかろうか。
下世話な話だが、あまり儲かるとは思えないような活動を熱心にやったり、他のニュー・ウェイブのアーティストがマネージメントに縛られて好きな事が出来ないのを尻目に、悠々自適な暮らしぶりが羨ましくも思う。そこまで過去の印税があるんだろうかね?
ROCKHURRAHも80年代に戻れるならビル・ネルソンの門下生となり、彼のプロデュースでコクトー・レコードから1枚でも出したかったものだよ。
え?無理?

やっぱり今回も時間切れ、こないだよりも少ないROOM3の一部屋だけで終わることになってしまったが、続きはまた書くよ。
最初に書いた通り、SNAKEPIPEのブログは彼女が退院して元気になるまで、当分の間お休みとさせて頂く。
その間に時間があればROCKHURRAHも何か書いてゆきたいが、難しい時はきっぱり休むね。

ではまた、
これから
SNAKEPIPEが待つ
病院に向かうのだ。(詩的表現を狙ったが意味なしの改行)