時に忘れられた人々【34】80年代TV CM編1

【本編で書かなかった三宅一生×ウルトラヴォックスのサントリーCM。高須院長じゃないよ】

ROCKHURRAH WROTE:

ここ数年間はすっかりご無沙汰となってしまったROCKHURRAHのブログ記事だが、実に久々に書いてみようと思う。

書けなくなった原因のひとつは、日曜日に更新するために記事を書く時間が土曜日の短い時間しかないということに尽きるね。

速く文章を書ける能力がないのは前々からわかってたけど、最近は前のように休み前に夜ふかしして、みたいな習慣がなくなったから、余計に集中する時間がない・・・というのが言い訳なのも自覚してるよ。

さて、実に久々な割には、熟考した末の記事になるとは全く思えないくらいに軽くなると、自分でも予想出来るね。

タイトルにある通り、お題は80年代のニュー・ウェイブ・バンドが使われたTVのコマーシャル特集、という誰もがやりそうな内容。
CMに使われるからには比較的知名度の高い音楽に限られるから、ROCKHURRAHなんかの出る幕じゃないよな。

しかも探してみると昔はあんなにあったと記憶してるのに、今ではちゃんとしたCMの映像なんてかなり少ないのが現状なんだよな。 YouTubeの動画を検索してもネットで検索しても「あんな有名なCMが何ですぐに出てこないの?」というくらいに時代が全然変わってしまってることが悲しくなってしまったよ。

80年代のサントリーやホンダとかのCMソングはニュー・ウェイブを割とたくさん使ってたと記憶してるのに、探しても出てこないのがたくさんあったから当初の予定とは大幅に変わってしまった。
パンクやニュー・ウェイブ真っ只中で育った世代としてはこんな現在や未来のことこそNo Futureと思ってしまうよ(大げさ)。

時間もあまりないので無駄な前置きもこの辺にして先を急ごう。

80年代のTV CMの傾向として・・・などと分析してみたわけじゃないが、今の時代のCMと比べるとシンプルなキャッチコピーと映像のみというパターンが多いという気がするよ。
ネット検索もまだない時代だから「今のCMカッコ良かったけど何?」みたいな漠然と心に引っかかるような類いで、また同じCMが流れると短い秒数で注視する。
そういう印象に残る戦略がうまいCMの方が80年代を経験した人にとっては記憶に残ってるんじゃないだろうか。

誰でもそうとは限らないけど、ROCKHURRAHの周りはパンクやニュー・ウェイブな音楽と洋服のデザインやアパレル関係者の交友がほとんどだったから、そういうところで話題になるのはやっぱりニュー・ウェイブな音楽が使われたCMばかりだった。

まずは80年代初頭に花開いたニュー・ロマンティックという潮流の代名詞とも言えるこれ、ヴィサージのスティーブ・ストレンジ本人が登場して話題となったTDKビデオ・テープのCMから。
15秒で横から正面を向くというだけの割とどうでもいい映像で、本人が出てるという以外には特に凝ったところもない。

CM特集の最初がいきなりこれじゃ「80年代CMはカッコ良かったんだよ」などと言っても信じてはもらえないだろうな。
ただ、時代の寵児とまではいかなくても、最初は先鋭的だった英国ニュー・ウェイブのアーティストが日本のお茶の間で見ることが出来る、という点で意義があったんじゃなかろうか。

70年代ロックの時代にグラム・ロックがあったように、80年代にもニュー・ロマンティックと呼ばれていたムーブメントなのか何なのかよくわからない潮流があり、見た目の派手さが子供やシロウトにもわかりやすかったので大いに流行ったもんだ。
多くの人は知ってると思うが、ニュー・ロマンティックは音楽のジャンルではなくて主に見た目に対しての呼び方みたいなものだった。
やってることはグラムの時代と同じようなもので、化粧して着飾ったバンド達の多くをニュー・ロマンティック扱いにするのがこの時代のメディアでは当たり前に行われていた。
やってる音楽ジャンルを超越してニュー・ロマンティック扱いで一括りにされていたという大雑把なもんだったな。
だから代表的ないくつかのバンドでも音楽性はマチマチ、その辺が同時代のポジパンよりは自由度が高かったと言えるだろう。
アダム&ジ・アンツとヴィサージじゃ随分印象も違うからね。

スティーブ・ストレンジによるヴィサージがデビューしたのが1979年で、これがニュー・ロマンティックの始まりの年とされる。
ヴィサージを始める前からビリーズ、ブリッツ(赤坂ではない)という有名クラブのイベントで、たくさんのオシャレ人間を集めてきたのがスティーブ・ストレンジとリッチ・キッズやスキッズのドラマーでもあったラスティ・イーガンだった。

日本でもロンドンナイトとか特定の人々を集めるイベントはあったけど、この2人がやってたのはデヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックなどグラムロックの先達をフィーチャーしたような音楽とファッションの宴だったようで、この辺になるとさすがに実際に行って体験したわけでもないから、想像の域を超えないよ。

スティーブ・ストレンジはその頃から仮装パーティそのもののようなキメッキメの衣装を着て、どの芸能人よりも目立ってたのはわかるが、当時のラスティ・イーガンはパーマのかかったリーゼントみたいな髪型。
リッチ・キッズやスキッズの頃からのトレードマークだったようで、どちらかというとヤンキー顔にしか見えなかったが、おしゃれな人気DJだったなどと書かれているのを読むと「?」と思ってしまうよ。
そんな2人が豊富な人脈で集めたのがヴィサージのメンバーというわけなんだろう。

ヴィサージの実体はマガジン(ジョン・マクガフ、デイヴ・フォーミュラ、バリー・アダムソン)やウルトラヴォックス(ミッジ・ユーロ、ビリー・カーリィ、ロビン・サイモン)、リッチ・キッズ(ミッジ・ユーロ、ラスティ・イーガン)という錚々たるミュージシャンが集まって出来たレコード制作、スタジオでの活動しか(おそらく)してない限定的な音楽ユニットだったようだ。
彼らが本拠地としてたブリッツ前での記念写真がこれね。
上記のメンバーほぼ全てがここに集ってるな。

音楽番組などに登場する時は大抵スティーブ・ストレンジと女性ダンサー2人のみしか出演しない、後ろはカラオケというスタイルでやってたような記憶がある。

音楽とファッションやアートなどの融合はパンク以前から一部ではあったにしても、大々的にファッション=ライフスタイルに特化したのはスティーブ・ストレンジが初めてだったんじゃないかな?と思うよ。
アントニー・プライスの衣装がこれほど映えるイメージ戦略は他にないように感じる。
だからこそのニュー・ロマンティックの代表なんだろうな。

ヴィサージはデビューした時から聴いていて「Fade To Grey」や「Tar」などは好きだったが、このCMに使われている「Night Train」はみんなが大好きで聴いてた1stアルバムではなく1982年の2ndアルバムからの曲。
前にこの記事でも書いてたな。
その時も書いてたがこのCMの部分があんなダンス・ナンバーのサビ(間奏?)の部分だけだったとはレコードで聴くまで知らなかったよ。
通販でもう売ってしまったが、ちゃんと日本盤シングル持ってて「TDKビデオテープCF使用曲」と明記してある。
下のビデオがフル・ヴァージョンね。

前にも色々書いたがROCKHURRAHの青春時代はカセットテープ全盛時代で、レコードをそのまま全部聴くよりも、好きなバンドの好きな曲をコンピレーションしてレコードから録音するという行為が何よりも好きだった。
録音には何よりもこだわってて、ライン録りする時の音量レベルが同じくらいにならないと気がすまない。
音量を均一化するノーマライズなんてアナログ録音にはなかったから、リアルタイムな手作業で気を使っていたものよ。
別に機材や音質にこだわってたわけじゃなくて、曲順や曲のつなぎ、音量が一定でありさえすれば良かったので、いわゆるオーディオ・マニアとは程遠いね。

カセットテープにもこだわっていて、ソニーやTDK、マクセルにBASFとか様々なものを試していたな。
ちょっと高価なクローム・テープとかも含めて部屋の中に山ほどカセットテープの在庫があったもんだ。
これまた音質にこだわって、じゃなくて何となくのデザインとか曲目を書くところがいっぱいあるかどうか、とか変な部分のこだわりね。
この時代は手書きで曲目やアーティスト名を書き込んでたんだけど「最後の数曲、書き込むスペースがない!」なんてことになったら今までやってきた録音の苦労まで台無しになるような失望感(大げさ)を味わっていたよ。
もしかしてちょっとバカなんじゃない?と思えるほど。

時代がもう少し後になって、パソコンとか買うよりもずっと前にワープロ買ったのも、自慢のコンピレーション・カセットテープのレーベルを作ったり、解説まで書いた小冊子を作って友達にプレゼントしたり、そういうのが一番の目的だったな。

そこまで妙なこだわりを持ってたくせにビデオテープには特に何のこだわりもなかったのが不思議。
ヴィサージがCMやってたからTDKの良いグレードのテープを買ったりはしてなかったなあ。
映像と言うよりは音楽が主な趣味だったんだろうな。

こっちは同じ2ndアルバムに収録の「Whispers」、この曲もCMに使われててどうやら日本盤だけのリリースしかされてないようだ。
たかが少しの期間だけ流すようなCMで2曲もシングル化するとはポリドールも太っ腹。
日本で売りたくて仕方なかったほどヴィサージ推しだったのかね?
映画「去年マリエンバートで」と全く同じロケ地を使っての撮影で力が入ってるね。
ミュンヘンにある宮殿だそうだから、行って撮りさえすりゃ絵にはなるだろうけど、企画が通って実際に手配したりの数々の面倒なことを考えると、作った人々の熱意に頭が下がるよ。。
このCMが日本のみなのか海外でもTDKのビデオテープのCMやってたのかは不明だが、この時代のCMは本当に「たかがCM」じゃないんだよな。

次はとっても有名なCMソングとして君臨するカルチャー・クラブの「Mystery Boy(1982)」だ。

カルチャー・クラブもニュー・ロマンティックとされるムーブメントの中で出てきたバンドだったが、ブリッツというクラブ出身としては最も大成したバンドのひとつだったな。
別にブリッツに出入りしてたわけじゃないから他に誰がいたかハッキリわからんが。
ボーイ・ジョージがカルチャー・クラブでデビューする前、1979年当時の写真がこれだけど、こういうパンクな見た目だった時もあったんだね。

ニュー・ロマンティックの括りに入るバンドの多くが、エレポップ、シンセポップというシンセサイザーを多めに使った無機的な音楽を取り入れていたが、カルチャー・クラブはレゲエやブラック・ミュージックのテイストも取り入れてて、そこがボーイ・ジョージの優しい歌声とマッチしてて個性を出していた。
ファッション的にもこの時代を象徴する存在だったもんね。
スティーブ・ストレンジと比べて派手さでは負けてなかったけど、ボーイ・ジョージ風の方が髪型とメイクで何とかなるし、服装もそこまで高価そうではない、ということで庶民でも真似がしやすいという点も人気の秘訣だったかも。

イギリスは世界の他の国よりは開けていたとは言っても、人種的な差別や性的マイノリティなどの問題をまだ大っぴらに唱える事が出来ないような微妙な時代。
そういうところに真っ向から戦うというよりはこういう切り口で異を唱えるという姿勢なども評価されてるけど、ROCKHURRAHは音楽にあまりその手の語り方をしたくない姿勢なので、この辺の事は誰か他の語り手に任せるよ。

ただ軽薄で薄っぺらいみたいに一律に語られてるような80年代ニュー・ウェイブでも、社会を微動させるくらいの何らかの気概は持っていたということだね(いいかげん)。

ROCKHURRAHはカルチャー・クラブのアルバムは一度も買ったことないけど、この「ミステリー・ボーイ」の日本盤シングルだけは小倉(北九州)の松田楽器(80年代当時)で買ったのを覚えてる。
この頃は好き嫌いとか抜きにして、ニュー・ウェイブっぽいシングルだったらかなり何でも買ってたもんな。
この当時の福岡、天神に行けば輸入盤レコードが手に入ったけど、小倉は駅前にプレハブ小屋みたいな輸入盤屋しかなかったから、文化面でかなりの差があった。
それでもROCKHURRAHは無理して福岡までレコード買いに行ってたけど、地元じゃ大したのは手に入らなかったから、屈辱的ではあるが日本盤でリリースされたレコードで情報収集をしてたというわけだ。
このすぐ後くらいにはやっと上京して東北沢や世田谷代田に住んで、好きな輸入盤屋巡りも出来たんだけど、今度はレコード買う金もないくらいにしばらくは極貧暮らしをしてたもんだ。

この曲が日本でだけリリースなのかはハッキリ知らないが、彼らのデビュー・アルバムの日本盤にはこの曲が収録されていて、英国盤には収録されていない。
たぶんイギリスではあまり知られてなかった曲なのかもね、名曲だけど。

このCMはカルチャー・クラブの曲が使われただけで、ヴィサージのように出演してたわけではない。
タカラCANチューハイなら本人が出演するCMがあったんだけど、そんなにファンでもなくて書ける逸話もないからこっちの方にしたよ。

「火がある、人がいる。」というキャッチコピーで、ダブルサイズ5340円で売られてたらしいサントリー・オールドのウィスキー。
そんな高かったっけ?と思ってしまうよ。
個人的には金を出して買ったのは1回くらいで、実家にいる時は親が御歳暮で貰ったのを勝手に飲んでたもんだ。
この時代の居酒屋、パブなどと言われてた店に行くとボトルキープとかでオールドやホワイトは定番だったけど、カッコつけて当時ではあまり知られてない酒やカクテルを頼んだり、愚かな若者だったなあ。

ちなみに今回のと同じ時代くらいのサントリーのCMで「水がある、氷がある」という夏ヴァージョンのキャッチコピーがあり、そのCM音楽をやったエレクトリック・ギターズの「Beat Me Hollow(アイスでビートタイム)」というのを特集しようと思ってたんだが、このCMがどうしても見つからず、仕方なくメジャーなカルチャー・クラブの方にしたという知られざる経緯があったのだ。

お次もサントリーのCMなんだが、実はROCKHURRAHはその商品もCMも見たことがないという代物。
1983年に発売されたQという名前のウィスキーで、曲はデュラン・デュランの大ヒット曲「Is There Something I Should Know?」。
日本では1行目の歌詞を取って「プリーズ・テル・ミー・ナウ」という邦題がついてるが原題はスラッと言えないもんな。
ROCKHURRAHもこのタイトルでしか知らなかったよ。

上に書いたニュー・ロマンティックの最大のスターであるデュラン・デュラン本人たちが出演してるというのが驚き。
しかも首だけ大きな操り人形風の演出で人形たち相手にライブを行なっているという映像。
途中で「Q」という合いの手みたいなのが入るがもちろん原曲にはないCMだけのアレンジ。

デヴィッド・リンチが監督したデュラン・デュランの「アンステージド」というライブ映画をだいぶ昔にSNAKEPIPEと観に行って、そこでバンドのイメージとは大きく離れた、ぬいぐるみが歌の間に突然出てくるという変な演出を見て笑ってしまったけど、本人たちは案外カッコつけてるよりはこういうお茶目なのが好きなのかもね。

1978年に結成して81年にデビューしたデュラン・デュランはアーティフィシャルなヴィサージのイメージとは違った、ちゃんとした演奏力を持ったバンドとしての形態でニュー・ロマンティックの中心的な存在、大スターとなった印象があるな。
彼らはロンドンとリヴァプールのちょうど中間地点になるバーミンガム出身で、結成からレコード・デビューするまでに時間がかかった事から、勝手に割と苦労人の集まりじゃなかろうかと推測するけど、実際はどうなんだろうか?
実績のあるミュージシャンのサポートを得て、すぐにニュー・ロマンティック界のスターとなったヴィサージに比べると紆余曲折があったわけだが、初期の頃はメンバーの入れ替わりが激しく、みんなが知ってるメンバーになるまでに2年を要しているんだね。

公式デビュー前には後にTin Tin、ライラック・タイムで知名度を得るスティーブン・ダフィもヴォーカリストとして在籍していたらしいが、当たり前だがその後のデュラン・デュランとは違ったもの。
個人的には後のヴォーカリスト、サイモン・ル・ボンと比べると見た目はスティーブン・ダフィの方が良かったとは思うけど、デュラン・デュランの曲をもし歌ってたら?と思うとやっぱりしっくりはこないという気がする。
結果としてサイモン・ル・ボンに決めて良かったね。
デビュー後の快進撃は誰もが知る通り。

ROCKHURRAHはデュラン・デュランを自分で買ったことはないが、彼らの1stアルバムは兄が友達から借りたのを返さないままずっと実家にあったので、我が物のように扱っていた事を思い出す。
だから「Girls On Film」や「Planet Earth」などの初期の曲だけがROCKHURRAHにおけるデュラン・デュランの印象であり、後の時代にヒットしたからもちろん知ってる曲もあるが、確かにニュー・ウェイブを感じたのはこの1stのみだった。

だからデュラン・デュランに対しての思い出とかも特にはないんだけど、またまた北九州の小倉での事を思い出してしまった。

パンクやニュー・ウェイブに目覚めてしまったROCKHURRAHは、勉強しなかったからなのか素養がなかったからなのかわからないが、大学受験に落ちて予備校通いをしていた。
とは言っても勉強してたわけではなく、この記事「昔の名前で出ています、か?(其の四)」にも書いたような生活をしてただけ。
スクーターに乗ってたから、機動力は今この歳になるまでを含めてこの頃が最大だったという気がする。

予備校の近くに定食屋があって、そこで3人と意気投合して、ROCKHURRAHを加えた4人組でよく行動を共にしていたもんだ。
ROCKHURRAHがPILのTシャツを着てたのに声をかけてきた隣の席の男とその仲間たち、という感じがきっかけで音楽の話をするようになったのだ。
共通点は服装の好みが似ていた事とみんなニュー・ウェイブが好きだったという点だった。

上のリンク先の記事にある通り、魚町の中にあったコーヒー・オオニシも4人のたまり場にしてて、ROCKHURRAHはそこでバイトをして店の終焉にも立ち会った当事者でもある。
ROCKHURRAHの青春(小倉編)のピークがこの頃だったな。

4人組の一番年下だったW井とは特に2人だけでつるんでたし、ニュー・ウェイブのレコードを貸し借りしたり、この子の家に泊まって大学受験も行ったもんだ。
彼はベースを弾いてるらしかったので、ベースのカッコいいニュー・ウェイブとしてウルトラヴォックス(「Slow Motion」の頃)やデュラン・デュランがお気に入りで、ROCKHURRAHはストラングラーズやマガジンを教えたりしていたな。
あまりマイナーなものは受け付けてくれなかったから弟子にはならなかったけど。

オオニシで働いてた全く笑わない愛想のないウェイトレスがいたんだけど、その人のお姉さんが有線のリクエスト受け付けをやってたからしょっちゅう上記のバンドなどをリクエストしてたのも思い出す。
お姉さんはとても愛想良かったけど、店には一度も来なかったから声だけの人。

ROCKHURRAHは高校からの友達も何人か同じ予備校に通っていたし、予備校で知り合った田川や行橋の不良どもともつるんでたんだが、趣味が近い3人の方とより親しくなってしまったから、その辺の友達変遷はデュラン・デュランの初期メンバー並みにかなり激しかったな。
結局はみんなその場限りの友達で、その後ずっと付き合いをしてるような友達もいないし、ROCKHURRAHは人との付き合いがいつも希薄だから、友達と言える友達もいない人生なんだろうな。
関係ないが上の一文の中に友達という言葉を4回も使ってしまった。
実に久しぶりのブログだが文章が破綻してるところだけは健在だな。

というわけでデュラン・デュランについて特に語ることもなかったので、字数だけは稼げたが、どうでもいい個人的な話ばかりになってしまったよ。
長くなってしまったので今日のCM編は一旦ここで終わりにしよう。
続きは当然やらないといけないけど、果たして書けるんだろうか?
自分で不安になってしまうよ。

それではこれにて罷り申します(古文で別れの謙譲語)

ROCKHURRAH RECORDS残暑見舞い2025

20250817 top
【全ては大丈夫、早く良くなってねSNAKEPIPE!】

ROCKHURRAH WROTE:

ROCKHURRAHとSNAKEPIPEはいつもより長いお盆休みを取ってるんだが、実はSNAKEPIPEはこの期間中に手術を行っていて、まだ入院中なのだ。
これまでに手術経験のない、比較的健康な生活を送ってきたSNAKEPIPEだったが、人生初の命に関わるような大手術を先週受けることになった。
ブログがアップされるのは日曜日だから「先週」とは書くものの、この記事を書いてるのはまだ手術翌日。
時系列で言えば先週後半の話だ。え?説明しなくてもわかる?

本当はブログなんて悠長に書いてる場合じゃないんだが、今回の記事はSNAKEPIPEからのリクエストによるもの。
手術のせいで毎週書いてたブログをお休みしたくない、という思いからなんだよ。
来週の体調が良くなってるかどうかがわからないので、実はその分のブログ記事も書き溜めてるという周到ぶり。
年に2回くらいしかブログを書かないROCKHURRAHには真似出来ない芸当だから頭が下がるよ。

この記事のみ読んでるような人には状況がさっぱりわからないだろうから、なるべく時系列に沿って語るとしようか。

年末年始に突然高熱を出したSNAKEPIPEだったが、色々な医者に診せても不明熱とかしかわからず、とにかく高熱のまま2ヶ月間も何の病気だかわからないまんまだった。
正月休みと重なってしまったので最初の対応が遅れたのもあったし、行った病院がヤブ医者→ちょっとは専門的な医者→全然関係ない分野の医者、となってしまったのが2ヶ月も治療が遅れた原因だ。
そして結局は別件で受診した大学病院、ここでやっと高熱の原因となった病気が判明した。
どうやらかなり危ない大病らしく、その日のうちに緊急入院となったくだりはこの記事この記事にも書いてるな。

そこで1ヶ月もの間入院して点滴治療を行なって、やっとSNAKEPIPEの厄介な病気はひとまず治った。
ROCKHURRAHは1日も欠かさず見舞いに行ってたけど、この間は2人とも本当に辛かったな。

そして今回の手術。
2月の病気とは密接に関係してるものの、どちらが原因なのかもハッキリとはわからないよ。
手術を受けた方がいいとは去年から大学病院で言われてて、ある程度の覚悟はしていたんだが、その病院では最も受けたくない手術方法でしか出来ないと言う。
主治医が正直と言うか、あまり自信がないような口ぶりで手術について語るので聞いてる方が怖くなってしまった。
このままでは絶対にいけないと2人のセルフKY(危険予知)が働いて、ここでの手術は辞退する決断をしたのだ。

その頃から病気については調べていて、TVドラマのモデルにもなった、この分野では日本一と言われてる有名な医師のいる東京の病院で手術を受けることになったのが5月の話。
さすがにこの手の手術に関しては場慣れしてる口ぶりで「得意です」とまで言われたら、この先生を信じる気になってしまったよ。
昔はSFでしかお目にかかれなかった最先端手術を受けることが出来て、しかも院長自ら執刀してくれるという。
大学病院から言われるままにしなくて良かったよ。

時はあっという間に過ぎて入院、そして手術となったのが昨日なのだ。

本当はこの間の紆余曲折や心の乱れ、2人の不安なども詳しく書こうと思えばかなりの長文になってしまうだろう。
しかしこのブログではSNAKEPIPEの病気についても漠然としか書いてないわけで、そんな描写は意味がないだろうな。

前は手術の様子を見学出来たようなのだが今はやってないとの事で、待合室で待つしかない。
TVドラマでよく見るように手術室の外のベンチで祈りながら待つ、というシーンはこの病院では出来ないので仕方ないな。

朝から始めた手術が昼前には終了、無事に成功したと伝えられたのでとりあえずはひと安心。
随分時間がかかったとROCKHURRAHは思ってたんだが、実際には麻酔をかけたり色々なものを装着したりで1時間くらいはかかるらしいので、手術自体は素早い手並みだったんだろうな。

夕方に麻酔から覚めた時には本人の連絡ももらったけど、文章は怪しいしその後プッツリと音信不通となってしまった。
手術自体は成功でも痛みや何やで苦しい思いをしてるんじゃないかという心配でいっぱいだったよ。

翌日、つまり今日の昼前にやっとSNAKEPIPEからちゃんとしたメッセージが来て、大丈夫なようなので、ようやく安堵した。
その後、少しずつ回復してるようなメッセージが増えてきたので良かった。
不安の中でこんな記事なんか冷静には書けないもんね。

敢えて具体的な闘病日記みたいなものは書けないけど、ごく簡単にSNAKEPIPEの現状を報告してみたよ。

今年も半分以上が過ぎたけど病気や手術以外でも、SNAKEPIPEのMacが突然ダメになって買い替えたことや、突然に玄関の壁が崩壊して靴棚がダメになったり、突然のDisorder(なぜか急に英語)が多かった年になるんだろうな。

SNAKEPIPEの回復祈願と今年後半にはだんだん良くなってくるとの願いを込めて、あまり凝ったものは作れなかったけどポストカードを作ってみたよ。
ROCKHURRAH POSTCARDというシリーズ名で毎年の年賀状と暑中見舞いを作ってるんだけど、80年代ニューウェイブに詳しい人が見たら元ネタはバレてしまうだろうな。
過去にもドイツのパレ・シャンブルグやホルガー・ヒラー、フェールファーベンにデイ・クルップスなどを題材に作ってきたが、今年は大御所DAFの曲名そのまんま。
Alles Ist Gutは「全ては大丈夫」みたいな意味だと思うけど、原曲はチューニングちょっと狂ったんでないの?と思わせる演奏に押し殺したヴォーカルで、全然大丈夫に聴こえない・・・が、まあいいか。

あともう少し待てばSNAKEPIPEも退院して帰れるようになるはず。
焦らず、ゆっくりでいいから徐々に元通りに元気になって欲しいよ。
一緒に帰って来よう、SNAKEPIPE。

それではまた、Bis bald!(ドイツ語で「また近々ね」)

ニッチ用美術館 第8回・・・の続き

【こないだよりはマシだけど代わり映えしないタイトルバックだな】

ROCKHURRAH WROTE:

この前はSNAKEPIPEが体調不良で休みになってしまったが、その翌週には何とか熱も下がりブログも書けるようになった。
・・・などと書いてたら、木曜日に予想もしてなかった大変不慮の事態が起きて、SNAKEPIPEはしばらくの間、お休みとさせていただくことになった。

高熱とは別件でSNAKEPIPEは医療機関の検査を受けてたんだが、実はその両方に関係があって、年末からの不明熱の原因が様々な検査の末、何とか特定出来た。
そこで突然に緊急入院という事になり、当日のうちに病床の人となった、というのが大変不慮の事態というわけだ。
悪いところはあったけどまさか入院する気など全くなかったので、これには2人ともビックリ。
全ての予定とかもキャンセルして病気の治療に専念する事になったのだ。
ただ、入院すると思ってなかったくらいだから、SNAKEPIPEは寝たきりというわけではなく、その前と比べて特に変わった様子もないのがまだ良かったところ。
早く元気になって欲しいと願いながらROCKHURRAHもSNAKEPIPEも頑張るよ。

こないだは時間切れで、たった2つしか書けなかった「ニッチ用美術館」だが、その続きが気になる人はいないとは思うけど、残りを書いてゆこう。
自分でも気づいてるけどROCKHURRAHの文章はやたら「だが」「けど」が多いな。
「たらればならぬだがけど」、全部ひらがなで書くと復活の呪文(大昔のゲームはセーブ機能がなかったので、長いパスワードを紙に書いて記録してた)みたいだな。
こういう悪文を特徴や個性とする気も全く無いけど(ほらまた「けど」)、センテンスが長すぎるのがROCKHURRAHの難点だと思うよ。

今回のテーマはバンドのメンバーが影響を受けたのか、レコード・ジャケットのアートワークを作る人が好きなのかは不明だけど、絵画作品をそのままジャケットにしてしまったものをROCKHURRAHの目線で探してみたよ。
2週間ほど前の続きね。

ROOM3 谷克多の美学

「読めん!」じゃなくて読める漢字ばかりだけど、これは一体?
中国語では让•谷克多と書いてジャン・コクトーと読むらしい。
言われてみればなるほど、という感じがまるでしないし、人名中の「谷」部分がどこにも当てはまる気がしないのはROCKHURRAHだけ?
克多は「こくた→コクト」みたいなニュアンスなのかね。
让に至ってはROCKHURRAHには想像もつかない漢字だよ。
こんなのがスラスラと読める人、いるんだろうか?

ジャン・コクトー(1889-1963)は言うまでもなくフランスの著名な芸術家。
詩人として特に有名だが、他にも小説、評論、脚本、絵画、デザイン、映画、音楽など様々な分野で活躍し「芸術のデパート」とまで言われる才能に溢れた人物だ。
数多くの人が好きな「美女と野獣」でも知られてるが、コクトーが原作なわけではなく、最初に実写映画にした事で有名。

このように芸術愛好家だけに支持されたわけでなく、大衆的な分野でも成功を収めたアーティストがそれ以前の時代にはあまりいないように感じるので、後の時代のマルチメディアみたいな元祖でもあったのかな、と素人のROCKHURRAHは思うよ。
活躍の幅が大きすぎて、全ての芸術分野に1人でリスペクト出来る人材はなかなかいないのが現状だと思うが、なぜかコクトー信者は彼の全てを理解してみせようという壮大な気宇(気構え、心の広さ)に満ちた人ばかり。

そんな熱烈なコクトー愛に満ち溢れたのがこの人、ビル・ネルソンだ。
中国語では昼寝損と書く(大ウソ、しかも程度が低い)。

70年代ブリティッシュ・ロックの中堅バンドとして、知らない人も多かったバンドにビー・バップ・デラックスがあった。
1974年に鮮烈なドクロギターのジャケット「Axe Victim(美しき生贄)」でメジャーデビューした時はグラムロック寄りのハードロック、あるいはプログレッシブ・ロックとのミクスチャーみたいな位置にあったが、このバンドのギタリストでヴォーカリストだったのがビル・ネルソンなのだ。

ビー・バップ・デラックスはデヴィッド・ボウイのような音楽とクイーンのような美しい旋律のロック、それにSF的な未来観を重ねたような音楽で、その時代のロックの中では少し異質なものだった。
ギターを弾きまくってたのは3rdアルバムくらいまでで、その後はキーボードやシンセサイザーとのアンサンブルを重視した独自の未来派ロックを展開していて、後のニュー・ウェイブの先駆け的なバンドとして知られている。
EMIハーヴェスト・レーベルからレコードを出してて、日本でも確か全作品がリリースされてたはず。
がしかし、デビュー当時の日本における洋楽の流行はハードロックとかプログレとか、割と典型的なものばかりがもてはやされるような時代。
グラムロックにしては化粧っ気や毒々しさがないしハードロックと言うにはそんなに荒々しくもない、かなりポップな部類のロックだったにも関わらず、そのどっちつかずの音楽性ゆえに日本ではあまり知られてないバンドのひとつだったかも。
EMIハーヴェストのWikipediaでも「主なバンド」の項目に名前が載らないくらいの知名度だったのが悲しい。

スティーブ・ハーリィーのコックニー・レベルもブライアン・フェリーのロキシー・ミュージックも、その時代のちょっと異端派に挙げられるが、その辺の音楽を聴いて影響を受けた世代が少し後のパンクやニュー・ウェイブへと繋がってゆく、というのが英国音楽の流れのひとつだと言えるよ。

ビー・バップ・デラックスの最後のアルバムはすでにニュー・ウェイブ時代の1978年だから、直接的にニュー・ウェイブに影響を与えたわけではないが、ビル・ネルソンの曲作りは早くから昔のロックというよりはニュー・ウェイブっぽい部分もあったと思う。
ビル・ネルソンのギター・プレイの影響を受けてると思われるのがスキッズ、ビッグ・カントリーのスチュアート・アダムソンや限りなく誰も知らないバンドに近いスコットランドのゾーンズ(スキッズのラッセル・ウェッブも在籍してた)とかオンリー・ワンズとか、有名無名に関わらず彼のようなギターを弾きたいと思うギター小僧は結構いたと思うよ。
ジミヘンやクラプトンみたいなギターじゃニュー・ウェイブにはならないからね。

1978年にビー・バップ・デラックスを解散させたビル・ネルソンが向かったのは、かつて自分が影響を与えたニュー・ウェイブ市場だった。
パンク、ニュー・ウェイブの誕生はこの時代の既存のミュージシャンにとっては新しい刺激でもあったに違いなく、後の世代から逆に影響を受けて方向転換したバンドやミュージシャンも数多くいたというわけだ。
ビル・ネルソンもその1人で、ビー・バップ・デラックスとは違う激しい方向性で初期ウルトラヴォックスやXTCのような勢いのあるエレクトリック・パンクとでも言うべきバンドを新しく始めた。
ビル・ネルソンズ・レッド・ノイズという素晴らしいバンドを1979年に始めたが、これに狂喜乱舞して心底からのめり込んだのが当時のROCKHURRAH(少年)だった。
この辺のことについては当ブログでも記事を書いてるので参照してね。

その後、バンドよりも宅録みたいな、よりプライベートな音楽制作にシフトしてゆき、1981年からはソロ名義に変わって、EMIからマーキュリーに移籍したりして、いわゆるエレポップ、テクノポップという分野で業績を残しているのが80年代のビル・ネルソンだった。

さて、ようやく本題だがビル・ネルソンとジャン・コクトーの関係について。
ビー・バップ・デラックスの2nd「Futurama(1975)」でも「Jean Cocteau」という美しいギターの名曲を書いていて、コクトー好きなのはわかってたが、自身の持つインディーズ・レーベルもコクトー・レコードにするほどの傾倒ぶり。
ほぼ自分のレコード出すためにあったようなレーベルだが、後に「I Ran」で一世を風靡したア・フロック・オブ・シーガルズもこのレーベルの出身だ。
冒頭のカモメのさえずりのようなキュンキュンという音は、ビー・バップ・デラックスの「Sister Seagull」でもファンにはおなじみの効果音ギター。
ビル・ネルソンが伝授したのか技を盗んだのかは知らないが、フロック・オブ・シーガルズもこの音を効果的に使いこなしているな。
あとはビル・ネルソンの実弟でレッドノイズでも重要なサックス・プレイヤー、イアン・ネルソン(中国語では慰安寝損、またまた大ウソ)の在籍したフィアット・ルクスとか、33回転なのか45回転なのか不明の変な曲をリリースしてたラスト・マン・イン・ヨーロッパとか、スキッズのリチャード・ジョブソンによる詩の朗読とか、高橋幸宏のソロとか、彼と親交のあったミュージシャンという内輪ばかりで固めたレーベルがコクトー・レコードだったと言える。

ジャン・コクトーは先にも書いた通り、芸術的なあらゆる分野で才能を見せたすごい才人なんだが、この人の書く絵やデッサン、ドローイングも独特の個性で素晴らしいもの。
サラサラっと描いた落書きのようなものがとてもうまくて、ちゃんとした素晴らしいアートなデザインになってるところがすごい。
彼の影響を受けたイラストレーターも数多くいたに違いない。
80年代のパンクでニュー・ウェイブな漫画家、奥平イラも一時期コクトーみたいなキャラクターで描いてたな。
コクトー・レーベルのロゴマークやビル・ネルソンのレコード・ジャケットもコクトー本人なのか似せて描いたのかは不明だけど(そこまで詳細に調べる余裕がなかった)、コクトーっぽいものが多数。
ROOM3の冒頭を飾ったレコード・ジャケットもまさにコクトー的な一枚だね。
コクトー・ツインズとかコクトーの名を冠したバンドもあったけど、ビル・ネルソンほどコクトーに心酔して徹底したアーティストは他にないと思えるよ。

ビル・ネルソン自身も、レッドノイズの時代から多くの曲で自分の専門であるギターと歌以外のパート、ベースにドラムにシンセサイザーなどもこなし、プロデュースも出来る、自分のスタジオもレーベルも持ってる。
まさに1人で何でも出来るマルチな才能を発揮していて、その辺が自分と多才なコクトーを重ねてたんじゃなかろうかね?
悲しいかな、誰も彼の事を「音楽のデパート」とは評してくれなかったが。

「Flaming Desire」はマーキュリー移籍後のアルバム「The Love That Whirls(1982)」に収録、シングルにもなった代表曲と言っても良い。
ドイツ表現主義の映画やジャン・コクトーの「詩人の血」あたりを思わせる雰囲気のモノクロ映像、彼の美学が集約された素晴らしい作品だと思うよ。
レーベルもメジャーだし音楽の質もヴィジュアルも、もっと売れてもいい活躍をしてもおかしくないアーティストなのに、意外なほどビデオは少なく、この曲とEMI時代の「Do You Dream In Colour?」くらいしか見たことないので動いてるこの時期の彼を見れる貴重な映像だな。

ちなみにこの「The Love That Whirls」には地元ヨークシャーの劇団による公演「美女と野獣」にビル・ネルソンが音楽をつけたという全曲インストのサントラ・アルバムまでおまけに付いててお値段そのまま。
1981年くらいから「カリガリ博士」のサントラ作ったり、ポピュラーな音楽から離れた現代音楽やアンビエントっぽいインスト作品もつくるようになって、むしろコクトー・レコードはそっちの膨大なリリースの方が多いんじゃなかろうか。
下世話な話だが、あまり儲かるとは思えないような活動を熱心にやったり、他のニュー・ウェイブのアーティストがマネージメントに縛られて好きな事が出来ないのを尻目に、悠々自適な暮らしぶりが羨ましくも思う。そこまで過去の印税があるんだろうかね?
ROCKHURRAHも80年代に戻れるならビル・ネルソンの門下生となり、彼のプロデュースでコクトー・レコードから1枚でも出したかったものだよ。
え?無理?

やっぱり今回も時間切れ、こないだよりも少ないROOM3の一部屋だけで終わることになってしまったが、続きはまた書くよ。
最初に書いた通り、SNAKEPIPEのブログは彼女が退院して元気になるまで、当分の間お休みとさせて頂く。
その間に時間があればROCKHURRAHも何か書いてゆきたいが、難しい時はきっぱり休むね。

ではまた、
これから
SNAKEPIPEが待つ
病院に向かうのだ。(詩的表現を狙ったが意味なしの改行)

ニッチ用美術館 第8回

【タイトルビデオも時間が足りず、シンプルで技がないな】

ROCKHURRAH WROTE:

元旦のブログからその後のブログ記事でもちょこっと書いてるように、SNAKEPIPEの病気が1ヶ月以上経った今でも完治とは程遠い状態。
最初は風邪だと思い、正月期間だったので病院にも行かず様子見をしていたんだが、熱がいつまでも下がらないのでいくつかの病院を受診してみた。
結局のところ何が原因で何の病気なのかもはっきりとわからないというのが現状、良くなってる時もあったからぬか喜びしてたのになあ。
飲んだ薬のおかげで寝不足になってしまい、眠れる時には寝かしつけておこうという判断になった。

というわけで今週はSNAKEPIPEはお休み。
最近滅多にブログを書かないと評判のROCKHURRAHが、急遽代理で書き始めたというわけだ。

心配は色々あるけどそのうち完治して元気になってくれると信じていよう。
読者のみなさんがどれくらいいるのかは全く不明だけど、ウチのブログに少しでもシンパシーを感じて下さる方がいたら、ぜひ温かいコメントなどいただけると嬉しいよ。

さて、代理になったのがだいぶ遅い時間だったからROCKHURRAHにはあまり時間がない。

いつもは関係ない前置きが長くてセンテンスも長いROCKHURRAHだが、今日は気を引き締めて簡潔に進行しよう。

で、今日久しぶりにやるのはROCKHURRAHの担当する名企画(自画自賛)「ニッチ用美術館」にしてみよう、というのが自分の脳内会議の末、さきほどやっと決まった。

いつものROCKHURRAHだと「この企画とは〜」などと言って毎回ダラダラ解説を書くんだが、そんなヒマはないので、わからない人は前の記事でも読んでみて下さい。

2017年に天啓のごとく「ニッチ用美術館」の趣旨が思い浮かび、タイトルバックの映像まで作ったりして、ものすごい情熱をかけてこの企画が始まった。
ウチのブログは大半はSNAKEPIPEが書いてるんだけど、滅多に書かない、書けないROCKHURRAHも一応自分の持ち場(シリーズ記事)は持ってるんだよ。
中でもこの企画はなかなかよそにはない切り口で評判もいい、個人的にも気に入ってるシリーズ記事のひとつなのだ。
がしかし、最後に書いたのが2021年夏。
タイトル映像を毎回変えたりして、とにかく時間と労力がかかる企画なのが難点。
だから滅多に新しい記事を書けなくなってしまった。
これじゃ忘れ去られても仕方ないよな。

今週は著名芸術家の作品を似せた、パクった、あるいは正当な許可を得て引用したオマージュ溢れるレコード・ジャケットに焦点を当ててみよう。
相も変わらずROCKHURRAHの特色である、1970〜1980年代のパンクやニュー・ウェイブと呼ばれた音楽のみで構成されてるので、そういう古い洋楽なんてわかんないような人こそ読むべし(偉そう)。

では始めてみようか。

ROOM 1 馬塞爾の美学

そしてまた相も変わらず「読めん!」というサブタイトルで構成するのが「ニッチ用美術館」のお約束。
今回は中国語による外国人の表記という難しい問題に真っ向から取り組んでみた。
馬塞爾と書いてマルセルと読むそうだ。
馬塞爾・杜象と書くとすなわち、マルセル・デュシャンということになる(らしい)。
言われてみれば何となくそんな気がします、程度だけど、よくぞこんな当て字を考えるよね。
马塞尔・杜尚という書き方もあってどっちが正しいのかもわからないが、中国人は日本人がカタカナ読めるようにみんな読めるんかいな?

マルセル・デュシャン(1887-1968)と言えば現代アートの元祖的な存在の一人と言ってもいい偉人なんだが、言ってる事や、やってる事に共感出来てよくわかる部分もあれば、何を表してるのか全く理解不能という作品も残したアーティストだね。
それすらも深く考えて理解している評論家やプロの方々もいるようだが、たぶん本人以外には誰にも「よくわからない」と思うよ。
などと書くと炎上するのが今なのかな?
センセーショナルな反芸術みたいなものを引っ提げて美術界に登場したり、そういうのもアリなんだと周りに思わせてムーブメント、あるいは流行りにしたり。
ちょっと芸術やめてチェスに明け暮れたり、女装してみたり。
まあ逸話には事欠かないナイス・ガイだったのは間違いない。
見た目も良かったからアーティストとして今でも好きな人は多いはず。
そんなに詳しいわけでもない不肖ROCKHURRAHごときでも、レディメイドの影響は強く受けてるのは間違いないよ。

そういう破天荒な生き様や作品は彼が活躍した時代のパンクでありニュー・ウェイブだったはずだ。

時は流れてパンク真っ盛りの70年代の英国、ここにもデュシャンの痕跡を見る事が出来た。
マンチェスター出身のバズコックスはヒット曲も多く、知名度も高い人気パンク・バンドだ。
最も初期には「一度聴いたら忘れられない粘着質の歌声」とROCKHURRAHが評している、ハワード・ディヴォートがヴォーカリストだったが、彼らの4曲入りシングル「Spiral Scratch」を初めて聴いた時の衝撃は今でも忘れることがない。
最もエキサイティングな時代にちょうど音楽を聴く世代に生まれた事はとてもラッキーだったと思うよ。
モロにパンクの洗礼を真っ向から受ける事が出来たわけだからね。
望む音楽は何でも無料で聴く事が出来る今の時代でも、この生体験だけは無理だからな。

そういう事を延々と書いてたら一向にブログが進まないので一気に端折るが、稀代の個性派ヴォーカリストだったハワード・ディヴォートはこの4曲だけであっさりバズコックスを卒業、嫌らしい歌声に磨きをかけてマガジンを始める。
残ったバズコックスはギタリストのピート・シェリーがヴォーカル兼任となって、そのへなちょこな歌声と類い稀なポップ・センスでパンク史に残る名曲を次々とリリース。
パンクはシングルだ、とよく言われるが、彼らのシングル曲はどれも勢いがあって、例えばインターネットのパンク・チャンネルのラジオでも必ず何回もかかるほどキャッチーな音作りが魅力だね。
中でも人気が高く「パンク史とは?(バンクシーとは?みたいだな)」というような趣旨のコンピレーションには欠かせないヒット曲がこちら、1978年発表の「Ever Fallen in Love」だろう。

2トーン・スカで人気あったザ・ビートの元メンバーが作った、ファイン・ヤング・カニバルズが80年代にカヴァーして再び大ヒットさせた事でもさらに知名度の高い曲だね。
虚ろな目つきで熱唱するピート・シェリーのこの映像を見て「パンクとは?」という問いかけに明確に答えられる若年層はいなさそうに感じるが、わしらの世代には頷く人も多かろう。
みんながみんなピストルズやクラッシュのようにカッコ良く決めてたわけじゃないんだよな。

さて、ニッチ用美術館の趣旨としてはこのジャケットを取り上げないと。
馬塞爾・杜象の代表作でもないとは思うが、1930年代に雑誌の表紙として作られたシルクスクリーン印刷が左の「Coeurs Volant(たゆたう心臓)」というもの。
よくわからないタイトルが多いデュシャン作の中でも割と直球、そしてデザインという分野でもとにかく目を引くキャッチーさで、ポスターとしても素晴らしいもの。
1900年代はじめに友禅染をヒントに英国で生まれた技法がシルクスクリーン印刷、それが普及して鮮やかな大量印刷が可能となり、デュシャンも後のウォーホルも一点ものじゃないアートに目をつけたってところがいいよね。
現物ではないがROCKHURRAHとSNAKEPIPEもカスヤの森現代美術館で去年鑑賞してきたのもコピーのひとつだったはず。
うーむ、何だかAI翻訳で書き写した文章みたいだな。

バズコックスのシングル・ジャケットはどれもアートっぽさとデザインっぽさが入り交じるものが多くて、ROCKHURRAHも好きなんだけど、このジャケットのはよく見るとちょっと違うようにも感じる。
レコード・ジャケットの裏側にちゃんと「Sleeve Front After Marcel Duchamp (Fluttering Hearts 1936)」と書いてあるので紛い物ではないんだろうが、制作してる時に何度も試行錯誤してると思うので、その時のコピーのひとつなんだろうかね。

うひょ〜、時間がないなどと言いながらROOM1だけでこんなに書いてしまった。
簡潔な文章などROCKHURRAHには書けないんだろうな。とっても無口なくせに。

ROOM 2 曼·雷の美学

これはすぐにピンと来るね。
曼·雷と書いてマン・レイ(1890-1976)と読む。
ダダイスムやシュルレアリスムといった20世紀前半の芸術運動の中でも、とりわけ写真の分野で燦然と輝く作品を残した大スターなのだ。
などと見てきたように書いたが、元々ROCKHURRAHはSNAKEPIPEのようにアートの世界を多く知ってるわけでもない門外漢。
そんなROCKHURRAHでもSNAKEPIPEと知り合う前から興味を持っていたのがダダイスムやシュルレアリスムの世界だった。
何で知ったのか、そのキッカケは展覧会でもアート関係の本でもなく、このレコードとかの情報から興味を持ったのが始まりだったかな。

その話はもう少し後にして、まずは曼·雷について。
調べりゃ誰でもわかると思うが、外国版のSF的キラキラネームみたいな名前は改名後のものであり、両親ともユダヤ系のアメリカ移住者だから、子供の時の名前はエマニュエル・ラドニツキーというアメリカ人ではなさそうな名前がついてた。
ユダヤ系と聞くと、どうしても時代的にナチスの迫害を恐れて・・・というような想像をしてしまうが、命がけで亡命したわけでもなくアメリカ生まれなのに、やはりどこの国でも他国から来た家族はあまり不自由なく暮らせないということかね。
エマニュエルの通称マニーをもじってマン、Radnitskyの綴りの最初と最後からRayと名乗るようになって、この芸名のような名前が誕生したらしいよ。

マン・レイは先に書いたマルセル・デュシャンをはじめとした、ダダやシュルレアリスムの有名芸術家の数多くと交友関係を持ち、自身も写真や絵画、立体作品に映像作品など多彩な分野のアーティストとして活躍した。
ただ写真をありのままに撮るのではなく、加工をしたり本物でもいい部分にあえて偽のものを加えたり、技巧を凝らしたところがアナログ時代のPhotoshop的で面白いと感じる人も多いだろうな。

さて、そんなマン・レイ作品をそのまんまストレートに使ったのがスキッズ、1980年作のシングル曲「Circus Games」だ。
歌詞から推測するとどうやらカードゲームなんだろうけど、この当時の英国で流行ってたのかもわからなかったよ。
流行りとかに関係なく、その家庭や特定の友達とだけローカルでやってたような遊びもあるからね。

スキッズはスコットランド出身の4人組で、1978年に地元のダンファームリンのレコード屋が興したノー・バッドというインディーズ・レーベルからデビュー・シングル「Charles」を出した。
それが評判になってパンク第2世代くらいが活躍していた英国でも人気バンドとなり、ヴァージン・レコードから1981年までに4枚のアルバムを出した、というのが略歴だけど、ROCKHURRAHが個人的に最も好きで追い求めてきたバンドのひとつだ。
このバンドを知ったのは音楽雑誌でも地元のレコード屋でもなく、音楽好き少年だったROCKHURRAHが熱心にやっていたカセットテープの編集が発端。
BASFというドイツ製のカセットテープがTDKやソニーよりは何だか通っぽく見える、という理由でこのメーカーのを愛用してた。
たぶんBASFのキャンペーンか何かで「生まれた時からコックニー・サウンド」というようなキャッチフレーズのチラシみたいなのが地元、小倉の電気屋の店先に置いてたのにふと目が留まって持ち帰ったんだが、そのキャンペーン・チラシのモデルがスキッズのリチャード・ジョブソンだったのだ。
今でも持ってりゃすごく珍しいものなんだろうが、さすがにそこまで物持ちが良くはない。

当時のROCKHURRAHは小倉から博多まで高速バスで出かけてレコードを買って帰るという事をしていて、月に2回くらいは買い出しに行ってたんだけど、そこで偶然にスキッズの2ndアルバムを見つけて買ったのがこのバンドとの出会いだったな。
スキッズ以前から大ファンだったビー・バップ・デラックスのビル・ネルソンがプロデュースとくれば好きになるに決まってる。

それからずっとスキッズのレコードを集めてきた・・・というほどにたくさんは出してないけどな。
派生したビッグ・カントリーやアーモリィ・ショウ、リチャード・ジョブソンの詩の朗読(ソロ)までも含めて見つけたら手に入れていたものだ。

「Circus Games」は3rdアルバムからのシングル曲で、パンクとかニュー・ウェイブとかの垣根を超えた80年代的ブリティッシュ・ロックの名曲だと思う。
サビの部分を敢えて子供たちのコーラスにしたのも効果的だね。
2ndアルバムの頃は原色の宇宙服みたいなコスチュームでいかにもニュー・ウェイブのバンドという雰囲気だったが、わずか1年後の3rdアルバムの時はトラッドな服装という変貌を遂げていたのが印象的だったものよ。
「方向転換にも程がある」とツッコまれても仕方ないね。
この時、わずか20歳の若輩者とは思えないリチャード・ジョブソンの老け顔は必見。
おっと、ジャケットにも触れておこうか。
「Dancer accompanies herself with her Shadows(彼女の影とともに踊る綱渡りの踊り子) vers 1919」と題されたマン・レイの作品が使われてるんだけど、同じようなタイトルでもっと有名なカラー作品があるので、この時代の連作のひとつなんだろう。
これは写真作品ではなくAerograph、切り抜いた物体にエアブラシでスプレーして、そのシルエットをキャンバス上に浮かび上がらせるという手法で作られたものらしい。
立体ステンシルというようなもんなのかな?
確かな技術に裏打ちされた、卓越したセンスというものが感じられる作品だな。

前置きで書いた通り、急遽代役で書き始めたROCKHURRAHだったが、さすがに一気にブログを仕上げるだけの時間もなかったし、もう時間切れ。
たった2つだけで申し訳ないが、この続きはまた後日にちゃんと書き上げるつもりだから。

未完だけど今日はここでおしまい。