【京極氏に使ってもらいたい?SNAKEPIPE撮影の憑き物系写真】
SNAKEPIPE WROTE:
約一月程前のブログ「妖怪に用かい?(とほほ)」で書いた京極夏彦ネタであるが、実はあれからすべての「妖怪シリーズ」を読破してしまったSNAKEPIPE!
「妖怪シリーズ」とは「京極堂シリーズ」のことである。
1994年から続く「妖怪シリーズ」を2008年現在は運良くスイスイ読み進むことができたが、全部読んでしまった今となっては次回作を悶々として待つ以外ない。
しかも次回作のタイトルだけは「鵼の碑」と教えられているけれど、詳細は全く不明。
「塗仏の宴 ―宴の始末」1998年から「陰摩羅鬼の瑕」2003年と間に5年を費やしている場合もあるようなので、現在刊行されている最後の作品「邪魅の雫」から次回作が一体いつになるのか不安になってしまう。
ということで、今回は今までの京極夏彦の作品を読後メモとして文章化しておきたい企画。
前回書いた内容と重複するかもしれないけど、あくまでも「自分自身のため」なので、あしからず。(笑)
「妖怪シリーズ」をまだ読んでいない方は「核心部分」があるかもしれないのでご注意を!
1「姑獲鳥の夏」
雑司が谷にある病院が舞台になっている作品。
代々伝わるDNAと風習が核心。
多重人格、薬物としてダチュラが登場。
目にしているはずでも「見ていない」という「うそでしょ」と言いたくなるような現象が発生。
人は本来自分が見たいものを見て、それ以外は認識されない、という理論が展開される。
解るような解らないような…。
いや、確かにカメラを持っていても同じ風景を見て撮る人撮らない人、全く気付かない人、といるわけで、納得できるかな。(笑)
2「魍魎の匣」
幻想小説家が実話を書くというパラドックス。
京極堂がかつて関わっていた「中野学校」の話が加わる。
残虐でグロテスクなバラバラ殺人事件。
「はこ」愛好家(密室愛好者)なる、閉所恐怖症とは逆の嗜好を知る。
実際いるかもしれないな。
「人間でいることを放棄したから幸せになった」というセリフが印象的。
3「狂骨の夢」
記憶喪失と記憶の混在。
場所は逗子。
金色髑髏事件、として語られる。
キリスト教、精神分析、真言立川流の教えを知る。
4「鉄鼠の檻」
箱根の禅寺。当然のように「禅」について詳しいお話が。
十牛図も載ってたし。
僧侶は名前を「音読み」するのが難しい。
作中で急に名字で○○和尚から☆☆さん、と呼ばれると一体誰だったのか分からなくなることがしばしば。(笑)
1作目の「姑獲鳥の夏」に出ていた人物が登場して、やっぱり順番通りに読まないと駄目だな、と実感。
まるで「ブリキの太鼓」のオスカル状態が描かれているシーンがある。
本当にそんなことが可能だろうか?
この小説の中で京極堂が珍しく出歩いて関口の自宅に行く件があってびっくり!
最後まで読んだらまた最初に戻らないといけない小説その1。
5「絡新婦の理」
房総半島の「蜘蛛の巣屋敷」が舞台。
ユダヤ教、夜這いの風習、女権拡張運動。
京極夏彦の小説は「あっち」と「こっち」と「あれ」と「これ」が複雑に交錯して、事件になったり人物がつながったりするのだが、今回の「絡新婦の理」はそれが益々複雑に入り乱れている。
注意深く読み進めていかないと、どこの誰の話だったか忘れてしまうので注意!(笑)
「んな、ばかな!」というラスト近くは息をつかせぬ激しい展開。
最後まで読んだらまた最初に戻らないといけない小説その2。
6「塗仏の宴 ―宴の支度/宴の始末」
伊豆韮山。
徐福伝説、新興宗教と催眠術に関する詳しい話が展開される。
今回の「塗仏の宴 」は「支度」と「始末」という上下巻になっていて、今までよりも更に複雑な展開である。
またもや「中野学校」関連の話が出てくる。
関口が災難で、読んでるうちにかわいそうになってしまった。
いやはや、それにしても随分と壮大な計画(ゲーム)考えたもんだ!
一体次はどうなってしまうのか?
7「陰摩羅鬼の瑕」
白樺湖畔の「鳥の城」が舞台。
儒教と哲学。
前作で「次はもっと大きな事件に巻き込まれるのでは?」と感想を持ったSNAKEPIPEを裏切るかのように、今回はこの館の中でのみ事件が発生する。
読んでいる途中で「もしかしたら」と考えていた通りに話が展開して、初めて推測が中った小説。
推測を見事にくつがえさせられるのが嬉しい、というのが本音なのだが。(笑)
初めて関口自身の「獨弔」という小説内小説が出てくるが、これ、まるで「魍魎の匣」の久保のよう!
当然だけどなかなか、だよね。(笑)
「陰摩羅鬼の瑕」では実在した人物(横溝正史)が関口と出会うシーンがあるのが珍しい。
あともう一つは京極堂が関口を心配して自ら出向く、という筋書きも珍しい。
但し、本当に京極堂が「憑き物落し」をする必要があったのか、は疑問。
8「邪魅の雫」
そしてついにここまで来てしまった!
現在のところの最新刊、ラストである。
神奈川県の平塚・大磯が舞台。
読後に調べて見ると、京極夏彦インタビューの中で
「本来なら益田や青木程度でじゅうぶんな事件でしょ」
と作者本人が語っている。
あ、やっぱり?(笑)
今回はあまり「憑き物」ついてないんだよね!
京極堂が出てきたのは前作「陰摩羅鬼の瑕」同様、珍しい理由だったし。
石井四郎の731部隊の話やら、また「中野学校」の話が出てきて、胡散臭い感じはあったけど。
事件とか妖怪とか憑き物を抜きに感想を述べるならば、先のインタビューの中にもあったように「自分の基準で物事を判断してはいないか?」というお題目を頂戴し、考えさせられる小説だな。
短編集も「百鬼夜行―陰」と「百器徒然袋―風」を読破。
残るはあと2冊「百器徒然袋―雨」と「今昔続百鬼―雲」である。
短編集はサイドストーリーなので、またちょっと風味が違う。
脇役だった人物が主役に抜擢されていたりして、「その人となり」を理解し易くなっている。
こちらも完読したいところだ。
京極夏彦の小説の魅力はストーリーやキャラクターだけではなく、氏の表現にも感じられる。
京極堂の仏頂面を表す数々の言い回し(葬式を20も梯子したような仏頂面、など)や、「しかしもお菓子もないよ」といったような駄洒落風の表現もある。
そしてかなり多用されているのが「~も蜂の頭もない」という言い方。
この表現は一般的に使われるものなのかと調べてみたら、「~もへちまもあったもんじゃない」と似た言い回しのようで。
また一つお勉強になったね!(笑)
まるでSNAKEPIPE自身が「取り憑かれた」かのように、熱心に読み進めて来た京極夏彦の本であるが、ここでしばしの休憩を余儀なくされてしまった。
ミステリーやホラーなどと分類しきれない、ユーモアのある「妖怪シリーズ」の次回作が待ち遠しいな!