【あんなに輝いてたミュージシャンのビフォー→アフター。見たくないなあ】
ROCKHURRAH WROTE:
今が旬じゃなくて過去に忘れ去られてしまった人々にだけ焦点を当てた「時に忘れられた人々」シリーズもすでに10回を超えてしまった。当初は色々なジャンルで取り上げてゆきたかった企画なんだが、音楽以外の分野ではわずかに作家の国枝史郎とヴィンテージ漫画特集をやっただけ。随分と偏ってしまったなあ。小説とかについては書ける事も多いんだけど、ブログを書くためにまた読みなおして・・・、というほどのヒマが今はないから、どうしても疎かになってしまう。
やっぱり記憶だけで書ける音楽の事が一番書きやすいし、ROCKHURRAHは何だかんだ言っても音楽バカ(過去音楽限定)なのかも知れないね。
というわけで今回選んでみたのは「あのミュージシャンが前はこんな事やってました」という前歴特集。
ただし「ダムドのデイブ・ヴァニアンが昔は墓掘り人夫だったらしい」とかそういう意味の前歴ではなく、単に前はこういうバンドをやってた、という程度の記事なのでけっこう苦しいものがあるのは書く前からわかりきってるが、それでも何とかまとめてしまえるROCKHURRAHの筆力にも一票もらいたいものだ。
Slik – Forever And Ever
この一回前「情熱パフォーマンス編」でもトップバッターだったミッジ・ユーロのさらに昔の姿。そこまで大好きなミュージシャンというわけでもないのに二回連続で出てくるのは、この人のスタイルの変化が急激でネタにしやすいからだろうか。
スリックは80年代にウルトラヴォックスで大スターとなるダンディ男、ミッジ・ユーロが70年代半ばにやっていたバンドだ。このユーロにケニー・ヒスロップ、ビリー・マッキサック、ラッセル・ウェッブを加えた4人がスリックのメンバーなんだが、ユーロ以外の三人はスリックの後のバンドPVC2を経た後、スコットランドでホット・ヴァルブスをやっていたウィリー・ガードナーと合体してゾーンズとなる。ちなみにウィリー・ガードナーは70年代に人気のあったアレックス・ハーヴェイの従兄弟として知られている。もうひとつちなみに、ホット・ヴァルブスというのはビー・バップ・デラックスのシングル・タイトルからつけたバンド名で、ゾーンズもビーバップ・デラックスそっくりの部分もあった。よほどのマニアじゃない限りは知らなくてもぜーんぜん大丈夫なバンドの解説にこれだけの文章を書いてしまった・・・。
もしかして親切を通り越して鬱陶しい男なのか?ROCKHURRAH。
ミッジ・ユーロ自身はこのスリックの後に初のパンク・バンド経験となるPVC2(メンバーはスリックと同一)を経て、いよいよリッチ・キッズのフロントマンとなるのは前回のブログに書いた通り。PVC2はホット・ヴァルブスと同じスコットランドのZOOMレーベルよりシングルを出していたな。マイナーだったが荒々しく理想的なパンクをやっていて、後のリッチ・キッズでも演る「Put You In The Picture」などのパンク名曲を残している。こっちのヴァージョンの方がリッチ・キッズ・ヴァージョンよりもずっと重くてカッコイイぞ。
さて、後の事ばかり書いてしまったが、このスリックは演奏がちゃんとうまくて作曲能力もあるベイ・シティ・ローラーズの対抗馬、というような位置づけでポップなロックをやっていた。センテンス長いな。まあアイドル路線とまではいかないが、そういうつもりでレコード会社としては売りたかったバンドなのだろう。76年にロンドン・パンクが始まる直前の時代の話。街中タータン・チェック、ベイ・シティ・ローラーズ旋風吹き荒れた70年代の日本では全く知られる事すらなかったバンドだ。
メンバー全員なぜか野球の格好だもんな。なぜスコットランドで野球なのか?日本でもベースボール・シャツとか着てる人はいるにはいたが、スリックとはたぶん何も関係ない単なる野球好きなのは間違いない。
このスリックのメンバーだった人たちにとってはそういうヴィジュアル面も触れられたくない過去なんだろうなあ。
で、そういう恥ずかしい経歴を持ったミッジ・ユーロ、野球のあとは単なる白無地Tシャツでリッチ・キッズ(前回のブログ参照。本当はもっとちゃんとした服装してる時もあった)、そして80年代になると突然オシャレに目覚めたのかスティーブ・ストレンジ率いる洒落者集団ヴィサージに加入、さらにジョン・フォックスの抜けた後のウルトラヴォックスに加入。
この二つは80年代初頭にロンドンで大人気だったニュー・ロマンティックスというムーブメントの中心となる。知らない人のために一応書いておくが男が女みたいに着飾ってリッチでゴージャスな雰囲気の音楽をやってたのがニュー・ロマンティックスだ。70年代のグラム・ロックの発展型みたいなもんだが、あれより遥かに夜会系。
関係ないがROCKHURRAHはニュー・ロマンティックスの分野で大成功したアダム&ジ・アンツのファンだった。彼らの推進した海賊ルックに触発されて、小倉のど田舎で勘違い甚だしい海賊ファッションもどき(全然そうは見えなかった)に身を包み、スクーターをぶっ飛ばしていたもんだ。若気の至りでちょっと中央分離帯に突っ込んで、植え込みの木の枝が腹に刺さったりしたなあ。
ああ恥ずべき過去、ミッジ・ユーロとお互い様だね(笑)。
The Nosebleeds – Ain’t Bin To No Music School
これまた日本ではほとんど紹介されなかったマンチェスター発の70年代パンク・バンドでノーズブリーズ。日本語に訳せば鼻血ーズというようなもんか。
マンチェスターと言えばかなり大物のパンク・バンドを輩出した事で知られる音楽先進都市だ。バズコックス、マガジン、スローター&ザ・ドッグス、ドローンズ、ワルシャワ(後のジョイ・ディヴィジョン)などなど、70年代パンクのファンとっては聖地みたいなもんだ。そこでひっそりとデビューしたのがこのノーズブリーズだ。たぶんシングルしか出してなくて解散したはずだが、マンチェスター系のバンドを集めたオムニバスでちょっと知られた程度。魚の位で言うならうぐいクラス。
このバンドは最初はエド・バンガーというシンガーが始めたものだが、80年代に活躍したドゥルッティ・コラムのヴィニ・ライリーがメンバーだった事で知られている。
ドゥルッティ・コラムと言えばマンチェスター発のレコード会社、ファクトリー・レーベルにおいて、ジョイ・ディヴィジョンと並ぶ看板だったバンドだ。
初期ではごく簡単なリズムのみ、そこにヴィニ・ライリーの透明感溢れるギターが展開するといった、簡素極まりないネオ・アコースティックな音楽が新鮮でファンも多かった。通常のロック形態のバンドというよりはヴィニのギター・プレイによる音のスケッチ、それを記録した作品という印象だった。
アンビエントとかイージー・リスニングとかそういう世界は全くわからんし、野卑でゴテゴテしたインチキ音楽大好きのROCKHURRAHだが、こじゃれたカフェのBGMとかには最適な音楽だったのは確かで、そういう音楽を愛するファンに支えられて、この手のインスト主体のバンドとしてはかなり売れたんじゃなかろうか。←またしてもセンテンス長すぎだな。来年の目標は簡潔な文章か?
音は地味だがこのヴィニ・ライリー、まさにこの時代の少女漫画に出てくるような繊細な顔立ちの美青年で、そのルックスからも女性ファンが多かったものだ。何と今でも美中年のようで、羨ましい限りですなあ。
前置きが非常に長くて何が書きたかったか忘れたほどだが、そんなか細い音楽で有名なヴィニ君が、その前はこういうパンク・バンドにいたというのが驚き。
しかしドゥルッティ・コラムを知る人が聴けば一目瞭然「Ain’t Bin To No Music School」の途中のギターはまさしくヴィニ・ライリー風で、その辺のミスマッチ感覚がありそうでない個性となっている。
このノーズブリーズの大変に珍しい、動いてる動画があったのでついでに載せておこう。ん?ヘンな言い回しだったがYouTubeには動いてない動画も結構あるからね。
ノーズブリーズはもう一人、ニュー・ウェイブ界の大物を輩出したバンドとして知られている。前述のエド・バンガーが抜けた後に二代目ヴォーカルとなったのが後のスミスで有名人となるモリッシーだったらしい。
パンクの時代はまだニューヨーク・ドールズのファン・クラブ英国会長とかそういう身分だったモリッシーがどういう経緯でノーズブリーズに加入したのかはよく知らないし、第二期ノーズブリーズは残念ながら持ってなくて曲も知らないんだが、あの声やひねくれた歌詞でパンクをやっていたのだろうか?それはまたそれで異色には違いないかな。
ヴィニ・ライリーもモリッシーもROCKHURRAHの好みとは違うが、やはり第一人者となるには独創性が必要。両者とも好みではないがそのプラスアルファの個性は充分持っていたと思えるので、そういう点では尊敬に値する人物だと言える。ただ、それが好きに繋がらないのが人の心と言うものなのかね?
またしても「好きじゃないなら書くなよ」という声が聞こえてきそうだな。ファンにも殴られそう。それでは退散しますかな。
今回は何となく生真面目な文章になってしまって、面白くはなかったな。
その割にはたった二つのバンドだけで結構長くなってしまった。いつもはもっとたくさん紹介するのに、個人的に週末が忙しかったので、こんなもんで許して。
同じネタでもう少しは書けそうだからまた次も書きます。