昔の名前で出ています、か?(其の四)

【今回出てくるキーワードを散りばめた画像をSNAKEPIPEが制作。何だこりゃ?

ROCKHURRAH WROTE:

何と最後に書いたのが2010年、6年も経って書いてる本人にもまさかの更新となるシリーズ記事がこの「昔の名前で出ています、か?」だ。

本来は、かつてレコード好きでかなり収集していたROCKHURRAHが懐かしのレコード屋を回想するという企画だった。
そういう事をやってた現役の頃からかなり時が流れているから、もしかしたら足繁く通った店はあとかたもなく潰れてるかも知れない。
移転、または店名自体が変わってるという可能性もある。
しかしそんなことをいちいち調べて書くとものすごく大変だから、本当に単なる記憶だけで書いたのがこのシリーズ記事だった。
6年経った今もまるで進歩してないどころか、記憶力が退化してSNAKEPIPEと二人で「あー。あれ何だっけ?」「誰だったっけ?」とか言いながら忘れてたことを思い出す毎日(笑)。
これじゃいかんと思い、記憶がまだ多少あるうちに(大げさ)過去のことを記録しておかねば・・・なんて大層な理由じゃないんだけど、久しぶりにこういう「昔」ネタを書いてみよう。

今回はレコード屋とか音楽に限らず、ROCKHURRAHの故郷とも言える小倉にあった店についてテキトウに思い出してみるよ。本当にテキトウなので呆れないでね。
この際、重要度は抜きにして思い出したかどうかだけがポイント。

日本の地名でどれくらいメジャーなのかわからんけど、福岡県北九州市にあるのが小倉という地区で小倉北区、小倉南区の二つに分かれている。
ROCKHURRAHの生まれは福岡県のもっと南西の山の中なんだけど、そこから西鉄大牟田線にあった基地の町を経て、小学生の時に北九州に引っ越してきた。ROCKHURRAHが生まれる前から親は割と転々としたらしく、意外と風来坊な気質だったのかな?
ROCKHURRAHも東京、福岡、京都、千葉、まあまあ転居が多いけど東京に出るまでの間はずっと小倉の住民だったわけで、当然何かの思い出やエピソードもあるのは間違いない。とは言っても別に劇的に生きてきたわけじゃないから他愛もない平凡な思い出ばっかりだったなあ。

先日、何年ぶりかで小倉に帰る用事があったんだが、何と小倉に滞在していたのはたった三時間だけという、芸能人並みのスケジュールで行動した一日があった。
急用じゃなければもっとゆっくりしていたかったんだけどね。

さて、そんな小倉の、人にとってはどうでもいいと思える場所を思い出すので少しの間、過去に遡ってみよう。
偶然この記事を読んで同時代を体験し、今でも覚えている人はどれくらいいるのかわからないが一人でも「ああ、あったねえ」と思い出してくれればそれでいいよ。
あらかじめ断っておくがROCKHURRAHが過ごしたその時代の小倉に限定してるので、その後でも前でもない。一応、当時の記憶でマップを作ってみたが、もちろん今の小倉っ子が読んでもよくわからないだろうな、と想像する。

ROCKHURRAHはこの街でパンク・ロックに目覚めレコードを買い始めた。
がしかし、そういう眼で見ると小倉の街はとても遅れてて、ちゃんとした輸入盤のレコードが買える店も当時はほとんどなく、仕方ないから小倉よりは都会だった博多、天神に買い物に出かけていた。
この辺はまあこのシリーズ記事の最初でも書いたな。

ROCKHURRAHはただレコード集めだけを趣味にしていたわけじゃないからパンクでニュー・ウェイブな服装とかにも興味があった。
まだ学生で金もなかったからバイトをして、その金でレコードや服を買っていたものだ。東京のように安く古着とか買える店もなく、そういう物価は逆に小倉の方が高かったのは確かだった。
その頃、よく通っていたのが「びんろう樹(MAP①)」という洋服屋。今では滅多に使わないけどブティックという言葉に当てはまる店(笑)。
魚町銀天街(小倉の中心地を貫くアーケード街)のどこかのビルの二階にあったな。ちょっとゲイっぽいと勝手に思ってたお兄さんがいて、少しニュー・ウェイブの話をしてた覚えがある。今では知ってる人も稀だと思えるがCOZO COMPANYというメーカーの出していたラバーソールの靴がロボットやジョージ・コックスなどの本家とは違った感じで、これが気に入ってボロボロになるまで愛用していた。

あと、小倉の中心街から離れた片野という何もないような場所になぜか当時の東京の古着屋にも負けない意気込みの古着屋があったな。
確か「ダイヤモンド・ガーデン(MAP外の場所なので番号なし)」というような店名だったが覚えてる人はいるだろうか?
ただ古着だったら何でも置く店と違い、ここは明確にフィフティーズ、ロカビリー専門の店だった。外観や内装も50年代っぽくしてて地方ではなかなか誇れるくらいの店構えだった。
暴走族、ヤンキー、そしてそのOB達が多く住む暴力都市だった小倉だから、リーゼントの延長としてロカビリーが人気だったのか?あまり関係ないような気もするが、確か高校の先輩の友達が店員だったかな。本当の古着に混じってジョンソンズやクリームソーダなども置いてあったな。
ジョンソンズのズートパンツを買った覚えがあるが、ポケットに変なくせがついてて、すぐに逆向きになってしまうからほとんど穿いた記憶がないよ(笑)。
同じ頃に買ったレーヨンのシャツは確かとても珍しいもので、これは後に東京で古着屋通いをしてた頃、色んな店で「すごく良い」と評価されたなあ。モデルが良かったか?
この店は意気込みは良かったに違いないが、たぶん場所も悪かったからすごく短い期間で閉店したような気がする。

その頃よく行ってたのが小倉駅前の「UCC(MAP③)」の喫茶店。別に何てことない普通のサラリーマンや学生が集うような店だった。パチンコ屋が並ぶ近くだったからスポーツ新聞広げて開店を待つような客も多く、ガラも悪かった。ああ、当時の小倉は本当にデンジャラスだったよな。ROCKHURRAHのようにパンクでニュー・ウェイブだった人間がわざわざ行かなくても、というような店構え。ここでよく食べてたのが何だかよくわからない鉄板焼きのようなナポリタンだった。目玉焼きが上に乗ってて食べてる間に下のほうが焦げてしまうという貧相な料理だが、このパリパリの焦げが気に入ってたのかな?最後に小さなグラスでコーヒーフロートがついて来て、かなりお得感があるメニューだったな。

魚町銀天街から横にそれた通りの小洒落たビルの二階にあったのが「コーヒー オオニシ(MAP④)」。一階がマックアビーという洋服屋、隣が本間ゴルフの店だったかな?またしてもビル名思い出せないよ。記憶が確かじゃないとムズムズするね。
これまたパンクやニュー・ウェイブゆかりの店とはまるで違ってたけど、当時仲良くしてた四人組のたまり場だった。音楽仲間、ただしやってる方じゃなくてリスナーの方ね。
毎日のように通ってるうちにここのバイトになってしまった。
下のマックアビーには小学校の時の同級生が働いてたな。小学校の時はほとんど話した事なかったし、再会しても「あー、六年の時の」程度の顔見知りだけど、狭い世界だったな。
店主は天才肌だがものすごく偏屈な人で、店舗経営には間違いなく向いてなかったタイプ。いい店だったんだがその店主が突然店に来なくなってあえなく廃業。
しかし潰れる前には結構、ROCKHURRAH一人で店を開けて一人でウェイター&厨房やって、ランチタイムとかまで切り盛りしてたもんだ。今よりもずっと有能だったらしい。

魚町銀天街が終わった先には旦過市場という古い食品街があった。他に例える市場を知らないから言うが、京都の錦市場みたいな感じで、あれよりももっと「戦後感」に溢れるゴミゴミした通りだった。入り口には「丸和」というスーパーがあって、当時の地方都市には珍しい24時間営業だった。
この店については特に書いてないが当ブログで「マルワランド・ドライブ」というデヴィッド・リンチのパクリみたいなタイトルで傑作記事を書いていたな。

その旦過市場入り口の横の方の角に全日空ビルというのがあって、そこの地下には「シェリーズ・バーMAP⑤」という巨大なカフェバー(たぶん死語)があった。
それより前から小倉の鳥町食堂街にあった「はんぷてぃ・だんぷてぃ」というパブのメンバーが独立して店舗を構えたように記憶する。何とROCKHURRAHの兄も創業時のメンバーの一人で、数年後にROCKHURRAH自身も少し働いたことがあった。
当時の小倉ではカッコイイ店のつもりだったんだろうが、なぜか一番盛り上がる時間帯にマイケル・センベロとか流すような店だった。スタッフはみんないい人だったけどね。
数年後、ROCKHURRAHがすっかり東京の住人になっていた頃、潰れたと風の便りに聞いたな。

ROCKHURRAHはバイクや車にはそこまで興味がなかったが、移動手段としてスクーターを愛用していた。東京に出た後は一切乗ってないから、この時代限定なんだけど、これによって一気に機動力が増して行動範囲も広くなった。機種名は敢えて書かないがヤマハの割とパワフルなのに乗ってたよ。
小倉や福岡の市街を網羅している交通手段はバスが主流だった。独占企業と言っても良いシェアを誇ってるのが西日本鉄道、通称西鉄バス。これが狂気のように北九州に網の目状のバス路線を開拓したから、北九州のどこへでもバスに乗りさえすれば行けるくらいに発達していた。小倉駅前から実家に帰るのにいくつもの路線が存在するほど。まあ便利と言えば便利なんだけど、行きたい方向の路線が複雑すぎて慣れないと大変でしかも運賃がバカ高い。
だからスクーターは自由に動きまわりたいROCKHURRAHにとっては大切な相棒だった。これに乗って大好きだった苅田の埋立地に出かけたりしたもんだ。こんなところにトラックでもなくて来るのは釣り師かROCKHURRAHくらいのもんだったなあ。
あと、気に入って行ってたのが南小倉にあった「満遊書店(MAP外の場所なので番号なし)」という巨大古本屋。ブックオフとかの大チェーン店でもなく、九州にしかなかったように記憶するが圧倒的な量の古本在庫があって、初めて入った時にはカルチャー・ショックを受けたものだ。他の店舗は知らないが福岡空港の近くにも最大規模の店があり、あまりにも巨大過ぎて本を探してる途中で疲れたり力尽きたりしたが、これは東京あたりの小型古本屋しか知らないような人が見たら卒倒するくらいの質量(大げさ)。

あくまでも個人的な思い出の小倉ばかりを思い出してみたけど、久しぶりに原点を思い出すのは楽しかったよ。また今度、気が向いたら色んな事を回想してみよう。

ではまた、さらばっちゃ(←小倉の人は絶対言わない)。

2 Comments

  1. 鳥飼否宇

    小倉話に関連して、正月帰省したときに聞いた話。
    福岡のIC乗車券はSUGOCA(すごか)なんですが、小倉のモノレールと一緒になった場合はmonoSUGOCA(ものすごか)というのだそうです。
    ネーミングだけインフレを起こしてる……。

  2. ROCKHURRAH

    鳥飼先生、いつもコメント頂きありがとうございます。
    小倉駅の「ぷらっとぴっと」といい、独自のパクリ路線(?)のネーミングのセンスが素晴らしいですね。
    今度はぜひ時間を作って、もう少し長く小倉や福岡に滞在したいものです。

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