DOUBLE MAX

【ダーク・ボガードとジェームズ・ウッズ演じる二人のMAX。あ、また帽子だ!(笑)】

SNAKEPIPE WROTE:

たまたま続けて観た映画の主役と主役級の人物の名前が同じマクシミリアン、通称マックスだった。
今回は二人のマックス、として二本の映画について感想をまとめてみたい。
どちらも今から20年以上も前に封切られた、かなり昔の映画である。

Once Upon A Time In Americaを初めて観たのはなんと長野県の松本だったSNAKEPIPE。
当時の友人の親戚の家に遊びに行った時のことだ。
封切りからかなりの時間が経ってからの上映で、地域の違いを感じたものだった。
内容は全く記憶になく、ただ寒かった印象しか残っていない。
雪が積もった寒い冬だったからだ。
そして今回久しぶりに再び観た。

Once Upon A Time In Americaは1984年のアメリカ・イタリア合作映画で、監督は「荒野の用心棒」や「夕陽のガンマン」などのマカロニ・ウエスタンで有名なセルジオ・レオーネ
主人公ヌードルスを演じるのは泣く子も黙るロバート・デ・ニーロ。(意味不明)
そしてヌードルスと少年時代からの仲間として登場するのが、冷酷そうな顔立ちのジェームズ・ウッズ演じるマックス。
1920年代の子供時代から1960年代までの約40年間が229分(完全版)に収められている大作である。
あらすじはWikiなどをご参照ください。(笑)
通常なら主役のデ・ニーロについて考察するんだろうけど、今回はあえて準主役のマックスに焦点を当ててみよう。

冒頭、一体何が始まったのか分からない。
まるで後半から観始めてしまったように錯覚してしまう。
実際ディスク2枚組のため、2に取り替えてしまったほどだ。
ところがぎっちょん(死語)これが正解で、首をひねりながらま観続けると徐々に話が読めてくる。
回想シーンとして蘇る少年時代からの記憶。
少しずつカットとして挿入され、いつの間にか少年時代の話が主体になっている。
年老いた顔を観た後で少年の顔を観る驚き。
よく似た顔を選んでいるのはさすがだ。

この少年時代のエピソードが印象的である。
貧乏な生活を送っている主人公だけれど、なぜだかとてもお洒落に見える。
1930年代当時は帽子をかぶってブーツ、が一般的だったのかな。
ヌードルスとマックスは親友で、いつでも一緒。
初体験まで同時、というほどの仲良し。(言い方がヘン?)
お互いを信頼し合っていたけれど、青年になると少しずつ関係が変わっていく。

もっとお金儲けしてビッグになりたい、という現実主義のマックスに対して
「いつまでも下町のドブネズミのままでいる」
というヌードルス。
子供時代は並列だった力関係が、青年時代ではマックスがリーダーになっている。
この力関係のバランスがわだかまりになる。
そしてわだかまりが次第に取り返しのつかない大きな溝になってしまう。
「子供時代のままだったら良かったのに」
と思ってしまうSNAKEPIPE。
でもこういう「あのときのちょっとしたことが原因で仲たがい」ってよくあることかもしれないなあ。
均衡が崩れたことで仲間の結束が弱まってしまう。
それが後半の人生を決定づける悲劇の始まりである。

主役のヌードルスの性格描写はされていたけれど、マックスに関してはさほど描かれていなかったので想像するしかない。
特に今回は端折られてしまった30年があるため、尚更解り難いのかもしれない。
この二人は途中で別の道を行くけれど、結局は意外な形で再会する。
ここにこの映画の醍醐味が凝縮されているように感じる。
「男」特有の世界なのかな。(笑)

物語はまた青年時代のヌードルスに戻る。
阿片窟での、冒頭のシーンである。
「あ、これもドグラ・マグラだ!」
と声を上げてしまった。
こういう編集されると、現実なのか夢なのか分からなくなるから困ってしまう。
笑顔の意味?ゴミ収集車?うーん…。
やっぱり最期まで謎なのね。(笑)

もう一本は「愛の嵐」。
原題はIl Portiere di notte(英語ではThe Night Porter)。
1974年のイタリア映画で監督はリリアーナ・カヴァーニ
SNAKEPIPEはこの映画が大好きで今までに何度観たか忘れたほどであるが、不思議なことに何度観ても新鮮な印象を持ってしまう。
こちらのマックスはダーク・ボガード扮する元ナチスの将校で身分を隠すために夜にホテルで働く従業員。
将校だった時代に関係したシャーロット・ランプリング演じるユダヤ人美少女との再会から話が始まる。

この映画の中で最も有名なのはポスターや画像でも観ることができる、ランプリングがセミヌードにサスペンダー、腕までの長い革手袋にナチス帽で歌うシーンである。
けだるく歌うランプリングはデカダンスの象徴。
あの服装(というのか)が似合う女性は稀だろう。
SNAKEPIPEも大のお気に入りのシーンである。
こちらも回想シーンとして時々挿入される将校時代の映像。
当時のドイツは実際に退廃芸術が盛んだったのだろうか?
そんなに多くはない当時の映像はインパクトが強く「愛の嵐」を印象づける。

出会った当初は被害者と加害者のような無理強いの関係だったはずなのに、いつの間にか二人は愛情を感じ合ってしまう。
ストックホルム症候群というのか、もしくはそれ以上の関係である。
立場や時代が違っていたら出会わなかった二人。
そして再会が新たな悲劇になってしまう。

恐らくこの映画を観た人のほとんどは途中で
「なんでここで逃げないんだろう?」
と思うはず。
SNAKEPIPEもROCKHURRAHも同じように思った。
ヨーロッパは地続きだから、いくらでも他の国に逃げられそうに感じるけどね。
結局マックスは自ら蒔いた種から伸びた蔓で首を絞められてしまう。
どこに逃げても蔓はスルスルと伸びてくることに気付いていたのかもしれない。

この映画についてはいろんな言い方ができると思うけど、SNAKEPIPEは
「純愛映画」
と定義付けたい。
大島渚監督の「愛のコリーダ」も同じ理由から純愛映画なんだよね。(笑)

選んだ道の終点が悲劇につながってしまった二人のマックス。
破滅型にしか生きられないのが観ている側としては悲しくもあるけど、それが本当に不幸なのかどうかは本人にしか分からないんだろうね。
観終わった後に考えさせられる映画2本だった。

大道・ブランコ・コーヒー

【東京都現代美術館告知用ポスターを大道風にアレンジして制作】

SNAKEPIPE WROTE:

11月3日は文化の日。
芸術の秋、ということで今週は芸術鑑賞の話をしてみたいと思う。

行ってきたのは東京都現代美術館
ここは周りにゆったりとした公園がある大変立地の良いリッチな美術館。(ぷっ)
設備もキレイで前からお気に入りの場所である。
企画展で興味がある時にはなるべく足を運ぶようにしている。
今回は森山大道氏とブラジルの写真家ミゲル・リオ=ブランコ氏の共同展示。
大道氏がブラジルを、ブランコ氏が日本を撮影している。
そして「ネオ・トロピカリア~ブラジルの創造力」というブラジル現代アート展も同時開催されている。
まずはブラジル現代アートから観て回ることにした。

いきなり「3階からどうぞ」と言われ、エスカレーターで昇る。
「これってまるでIKEA方式だよね」
とROCKHURRAH。
そうそう、IKEAも全部見て下さいとばかりに2階から回って歩かないと出口に出られない名づけて迷路商法!(笑)
それほど現代アートに明るいわけでもないし、ましてやブラジルのアーティストに知った名前もないためサラサラと流して観る。
色彩が鮮やかなこと、音楽も一緒に聴いてちょうだい、みたいな複合型も目立つ。
SNAKEPIPEが気に入ったのはオスジェメオスという双子が描いた絵画。
ちょっと漫画チックだけど、ポップな色に似合わない不気味さが良かった。
現代アート展にはよくあることだけど、いろんな種類の作品があるためなのか、順路が非常に分かり辛い。
係の人もきちんと説明しないし、矢印があるわけでもないので迷うことが多くちょっと不親切だなと思った。

続いてはメインの写真展。
まずは入り口に大道氏の縦位置モノクロプリントが「どうだ!」とばかりに8枚並んで展示されている。
これが素晴らしい!
いかにも大道氏の作品でとてもイイ感じだ。
期待に胸を膨らませながら会場へ。
ブラジルは極彩色で陽気なサンバの国という印象なのに、大道氏はあえて(?)全てをモノクロームで記録。
サンサンと輝く太陽に白い歯を見せるブラジリアン、という写真も見当たらない。
ラテン音楽の中にたまに息苦しくなるほど「せつない」旋律があるけれど、その雰囲気に近い気がした。
一番広くスペースを割いていたのは大きな印画紙(全紙より大きく見えた)で壁一面の人物写真。
57枚すべてが人、というのはかなり迫力があった。
大道氏は写真界のパンク、と思ってるSNAKEPIPEだけど(笑)今回の写真展に関して言えば
「ずっしりした荷物を預けられた気分」
という感じか。
とても良い写真展だったと思う。

一方日本を撮影したブラジルの写真家、ブランコ氏。
こちらは反対に全てカラー作品、サイズは6×6。
コラージュで見せる作品が数点と一枚ごとに見せる作品とが混ざっていた。
あれ?コラージュの中に使われてた写真がまた個別展示されてる!
こういう2回展示の「使い回し」、というのもアリなのかね?(笑)
ブランコ氏は「日本」ということにこだわり過ぎたような気がするな。
刀鍛冶場や浮世絵、のような写真は日本人の目から見ると「いかにも」になってしまう。
SNAKEPIPEの個人的な感想をいうと
「こんな見せ方があったんだ」
と目からウロコ的な発想や切り取りなどもっとブランコ氏らしさが欲しかった。
ちょっと残念だ。

そして最期に常設展を観る。
お馴染みの草間彌生リキテンスタインの作品には見慣れているせいか親しみを覚える。
SNAKEPIPEが非常に気になったのは「白髪一雄」という画家。
前にも観ていたのかもしれないけれど、今回観た中では一番迫力を感じた好みの画家だ。
日本でのアクションペインティング創始者とは!
猪の毛皮の上に赤黒い絵の具を塗りたくった絵が素敵だった。
もっとたくさんの作品を観てみたいな!

訳分からん、と言いながらもやっぱりアート鑑賞は楽しいね!
また面白そうな企画展に行きたいと思う。

No Country , No Life!


【おかっぱ系?4名様大集合!(笑)】

SNAKEPIPE WROTE:

やっと話題の映画「No Country」を観た。
以前より劇場で鑑賞済みの友人2人から「おもしろいよ!」と薦められていた作品である。
ご存知コーエン兄弟が監督・脚本などを手がけている2007年(日本公開は2008年)の映画。
1996年の「ファーゴ」との比較や感想を軽くまとめてみたい。
(ネタバレの箇所がありますので、これから観ようと思う方はご注意を!)

静寂の風景からスタート。
開始からほんの数分で「おかっぱ頭」の男の犯行シーン。
それにしてもなんでこんなヘンな髪型なんだろ!(笑)
かなり迫力のある力任せの壮絶なコロシ。
ところが、事件はこれだけじゃないんだよね!
その後も無差別に「自分にとって都合が悪い相手」をバンバン殺す。
「おかっぱ頭」には彼独自の哲学(美学?)があって、その原理にのっとって行動しているらしいんだけれど。
粘着質の変質的なサイコキラーだ。
ハンニバル・レクター(「羊たちの沈黙」で有名な博士)に匹敵する犯罪者」
のような記事をいくつか発見したけど、SNAKEPIPEはそうは思わなかったな。
レクター博士は知的で芸術肌の犯罪者だからだ。(ヘンな表現だけど)
そしてレクター博士は武器を使わない。
この「おかっぱ頭」は屠殺用エアガンを使って犯行に及ぶのだ。

ここで余談であるが、先日ROCKHURRAHの薦めで観たトビー・フーパーの「悪魔のいけにえ」の中にも牛を殺す話が出てきたことを思い出す。
「昔はかなづちで頭を叩いたもんだけど、今はエアガンだってよ」
この映画の中では「かなづちこそが正当」とエアガンは邪道のような言い方がされていたけれど、これもまた犯罪者独特の美学なんだろう。

大金を手に入れたあたりから、ドラマチックになってくる。
逃げるカウボーイハット、追う「おかっぱ頭」。
追う、追われるの構図はいつでも手に汗握るほどスリリングで、できれば大金持ってうまく逃げて欲しいと心の中で念じてしまう。
ところがっ!
そうはうまくいかないのね。
それにしてもカウボーイハットが誰に撃たれたのかはっきりしない。
「おにいさん、ビール飲まない?」
なんて誘ってた女もグルだったのか?
よく分からない組織の手下の仕業だろうくらいの予想はつくけれど、通常だったら描かれるはずのドラマが突然終了している。
勝手に準主役だろうと思っていたカウボーイハットは意外とあっさり映画の中から消えてしまったのだ。

この「通常なら描かれるはずのドラマ」の部分を恐らく故意に排除したのが「No Country」でエンターテインメントに仕上げたのが「ファーゴ」かな、と思う。
「ファーゴ」では「あの後どうなったんだろう」と予想することはなく、すっきりエンディングを迎えることができた。
ところが今回の「No Country」は尻切れトンボだらけ!
いきなり死体だけが映っていて、その間のストーリーがない。
話が途中で終わることが多く、その後が分からない。
もどかしいのである。

しかしこれは毎日見聞きするニュース報道に近い感覚ではないか、と思う。
何かしらの事件が起きて、犯人が捕まっていない場合は証拠や証言から事件を想像するしかない。
語られない部分が多いのがほとんどだろう。
現実世界でも膨大な数の事件が一度は話題になったとしても、あやふやで尻つぼみの報道のために結末を知らないままになっていることが多い。
毎日の事件が多過ぎて、最後まで伝えてくれないからだ。
そして事件そのものも時と共に人の記憶から薄らいでいく。
その意味では「No Country」はリアリティあふれる映画、といえるのではないか。
犯人逃走中、のまま「おかっぱ頭」の話は終わる。
観終わった後のちょっと物足りない感じも、またリアリズムか。

ラストは唐突に始まるせいでとまどうけれど、警官が夢や希望に破れてリタイアしてしまった諦念と老いについて語っているシーンだ。
これも通常の事件モノだったら警官はいつまでも犯人を追い続ける、となるはずが
「時間があるから馬にでも乗るかな」
なんてすっかり定年後の会話になっていて、更に前述の夢の話だ。
このあたりも現実的なんだね。
それにしてもコーエン兄弟、「バーバー」でも中年男の悲哀を描いてたな。
そのくらいの年齢の人をターゲットにしてるということなのか、これから先の自分のことを想像しているのか分からないけど、そんな年でもないのにね?

「No Country」は40ぐらいの賞を受賞しているようでびっくり!
いやあ、そのー、どうしてこの作品が?と思ってしまって。(笑)
どっち、と聞かれたらSNAKEPIPEは迷わず「ファーゴ」に軍配を上げるな!
自分では気付いていなくても、エンターテインメント慣れしてるのかもね。

End Of The Great Rock ‘n’ Roll Century Boy


【クラッシュとラモーンズのスナップ写真】

SNAKEPIPE WROTE:

久しぶりにパンク映画を観よう、ということになり選んだのが次の3本。
まずはSex Pistolsの「The Great Rock ‘n’ Roll Swindle」だ。
かつて観たのはいつのことだったのか全く思い出せないほど昔のこと。
1978年、ということは今から丁度30年前の映画である。
当然リアルタイムでは観てないけどね!(笑)

この映画がドキュメントなのか、なんて議論はこの際どうでもいい。
マルコム・マクラーレンに惑わされるな!
単純に「やっぱりPistolsはカッコいい!」でいいのでは?
パンク初期の勢いや、受け止める人々の混乱と熱狂。
あの手、この手と考えを巡らせるマクラーレン。
こういう仕掛け人、今ではプランナーという職業の人になるのだろうか。
マクラレンの逆手に取る作戦は思うツボで、Pistolsは売れまくり、知名度も高くなる。
よくもまあこんなことを考えたもんだ、と感心してしまうほど。
日本だったら秋元康、みたいなもんか。(笑)

当時のライブ映像は本当にカッコ良くて、未だにPistolsファッションが健在なのも納得である。
生前のSIDのハチャメチャぶりも、パンクの象徴にふさわしい。
「My Way」の対訳を読むと、それはまるでSIDの人生そのもの。
「俺は自分の人生を生きた」
うーん。ほんとその通り!
劇中、SIDがバイクに乗るシーンがあり、気付いていなかったけど、バイクはHONDAだった。(笑)
てっきりヨーロピアン系のバイクだと思ってたのに。
この映画の別バージョン「No Future」はまだ観ていないので、機会があったら観ようと思う。

さて、次は1980年に公開されたClashの映画「Rude Boy」だ。
ほとんど同じ時期のロンドンという、前述のPistolsと同じ設定なのに印象が違うのはやっぱりバンドの性格によるのだろうか。
この映画も以前観ているはずなのに、ほとんど覚えていなかった。(笑)
「Rude Boy」は半分ドキュメント、半分フィクションのような映画である。
「だらしないヤツ」という意味の「ルード・ボーイ」が主役なのだが、この男が図々しくて本当に嫌なタイプ。
このルードボーイがClashのメンバーと関わる部分と、当時のロンドンの状況を表すようなニュースや出来事が混在する。
はっきり言って、この男が主役になる必要はなかったんじゃないか、というくらいどうでもいい話で、やっぱり一番重要なのは当時のClashの映像。
ライブ映像はもちろんだけれど、喋ったり歩いたりする日常的な行動だけでも絵になっている。
ワンパク坊主がそのまま大人になってしまったような、ポールとトッパーに対して、ちょっと大人っぽく思想を語るジョーとミック、の組合わせはバランスが取れているように感じた。
当時25歳くらいだと思われるジョーの、まるで役者のような横顔。
長い手足で何頭身あるんだろう、と思うほど恵まれたスタイルをしたポールは惚れ惚れするほどである。
ファッションセンスもグンバツだしね!
今見ても全然色褪せないカッコ良さ!
ジョーが着ていた赤い旅団のTシャツも印象的だけれど、やっぱりClashは襟付シャツ(もしくはレザー)とパンツの細さが決め手だね!(笑)

ラストはRamones「End of the Century」である。
これは2003年公開の「Ramonesを語る」趣旨の映画で、ライブ映像はほとんどない。
この映画撮影の最中にはまだディー・ディーとジョニーが健在で、インタビューに答え本音トークしている。
メンバー間の実情を知ることになるこのドキュメント映画は、
「そんなに仲が悪かったんだ」
とびっくりするほどである。
よく一言も口をきかないままで20年以上も一緒に活動ができるもんだ、と逆に感心しちゃうけど。(笑)
メンバーの誰もが何かしらのトラブルを抱えていて、しかもお互いのことをあんまり好きじゃなかったみたいで。
ドラムが3人、ベースが2人も代わっていたとは知らなかった。
もっともSNAKEPIPEがRamonesを聴いていた時期はほんのわずかで、ずっと追いかけて聴き続けたわけじゃないから知らないのも当然か。
現在はオリジナルメンバーとして残っているのは、初代ドラムのトミーだけになってしまった。
もう「Ramones再結成」ということはあり得ないけれど、一度でも来日したRamonesを観られただけで良し、とするか。

いわゆる「オリジナルパンク」といえば必ず出てくるのが上述の3組のバンド。
リアルタイムで経験しているわけではないから、当時の雰囲気を追体験しているような気分にさせてくれる映像はとても嬉しい。
パンクとは一体なんだったのか、なんて議論は要らない。
本当のことを言えば、メンバー間の問題なんてSNAKEPIPEは知らなくてもいいくらいである。
インチキだろうが、トラブルだらけだろうが、カッコいい衝撃的な音を聴かせてくれたバンドというだけで充分だからだ。
Punk Always On My Mindってことで一件落着!(笑)