好き好きアーツ!#02 デヴィッド・リンチ—TV CM—

【LYNCHが手がけたCMの一部】

SNAKEPIPE WROTE:

今回は「好き好きアーツ」シリーズ第2弾、DAVID LYNCH編を書いてみよう。
LYNCHについては一回だけでは語りつくせないので、いくつかのパートに分けていきたいと思う。
第一回目はLYNCHが監督したコマーシャルについて。
ちなみにDAVIDは発音すると「デイヴィッド」だけど、恐らくカタカナ表記では「デヴィッド」とするのが一般的かな、と判断。
文中ではアルファベット表記としたので、そこんとこよろしく!

LYNCHのコマーシャル、と検索すると必ず一番最初にヒットするのがGUCCIである。
GUCCIが初めてのTVCMを作ることになり(Gucci BY GUCCIという香水)、そして何故かLYNCHに白羽の矢が立った模様。
以前に Calvin Kleinの「Obsession」(1988年)、GIORGIO ARMANIの「Who is Gio」(1992年)やYves Saint Laurentの「Opium」(1992年)などで香水のコマーシャルを手がけたせいか?
INLAND ENPIRE以来久々のLYNCHネタである。
ファンにとっては嬉しいニュース、と同時に「勇気ある決断だな」と思ったり。(笑)
GUCCIのサイトに入るとLYNCHが監督したCMとそのメイキング映像が観られる。
メイキングでは「あまり自分の位置から動かないで!そしてゆらゆら揺れて!」と言って指示を与えているLYNCH。
BLONDIEの名曲「Heart Of Glass」に乗ってゆらゆら揺れる3人のモデル。
いかにもLYNCHっぽい映像だけど、GUCCIはこれで良かったのかね?(笑)

SONYのゲーム機「Play Station 2」(2000年)はシリーズで撮影していたようで、検索するといくつかのヴァージョンを観ることができる。
LYNCHのサイトで確認すると、これはヨーロッパや映画館などで使われていたようだ。
うん、確かに何回観ても難解だもんね。(ぷっ)
男性が不思議な世界を歩いている、という設定のCMは光と影、煙の使い方や最後に登場する包帯ぐるぐる巻きの謎の人物やら通路の雰囲気、すべてが「いかにも」でイイ感じ!
SNAKEPIPEはとっても好きだな。

他にも眠っている犬が足をピクピクさせているCM、バンビが車にはねられそうになるCM、エサ用に内臓を海に捨てその血染めの海に飛び込むCMなど、とても解り辛い。
よくもSONYがこれでOKしたよね?
はっきり言って最後まで観ても一体何のCMなのか解らんぜよ。
ヨーロッパの方はこのCM観てPS2を買おうと思ったんだろうね!(笑)

他にも公共の「Clean Up.New York」(1991年)なんていう「ゴミのポイ捨てダメよ」というスローガンのCMもある。
キレイにしないとネズミが増える、というとても解り易いストーリー。
光と影がチラつく映像はまさしくLYNCH!
ネズミの尻尾や顔のアップはかなり怖くて、子供が観たら泣き出しそう。(笑)
これまた「いいのか、これで?」的なCFだな。

日本では、あらま懐かしや!
GeorgiaのCM、ツインピークス・ヴァージョン。
1991年といえば一番流行っていた時期で、CMの登場人物もツインピークスそのまんま!
これを観たらまたもう一度ツインピークス観たくなっちゃったな!

本当は他にもLYNCHのCMや音楽プロモーションの映像などもあるけれど、ひとまず今回はここまでにしよう。
LYNCHの好みそのままのモノもあれば、恐らくクライアント側からの指示で撮ってるだろうな、というモノもある。
きっとLYNCHにとってはお金稼ぎのアルバイトみたいな感覚なんだろうね!(笑)

好き好きアーツ!#01 畠山直哉

【LIME WORKSっぽい?SNAKEPIPE撮影の一枚】

SNAKEPIPE WROTE:

写真好きでROCKHURRAH RECORDSの「ABOUT US」にも「写真担当」と記載されているのにもかかわらず、今まで一度も写真家について書いていなかったSNAKEPIPE。
今回はSNAKEPIPEお気に入りのアーティスト・第一弾を書いてみたい。
タイトルはHaircut 100「Favourite Shirts 」の邦題、「好き好きシャーツ」をもじって付けてみた。
何故、シャツをあえて「シャーツ」と伸ばすのか疑問だが、面白いので採用!(笑)
この「好き好きアーツ」はシリーズ化できたらいいな、と考えている。

「好きな写真家は?」と質問されたら「畠山直哉!」と即答する。
もちろん他にもたくさん好きな写真家はいるけれど、一番は畠山氏である。
最近の活動についてはあまり詳しくないので申し訳ないが、畠山直哉氏と言えばやっぱり「LIME WORKS」と「アンダーグラウンド」だろう。

1996年というと今から12年前のことになる。
当時は毎月「アサヒカメラ」を購読していたSNAKEPIPE。
「今月の新刊—–LIME WORKS   畠山直哉—–シナジー幾何学より」
2cm×3cmほどの小さなモノクロ写真と共に紹介されていた記事を見た瞬間に強い衝撃を受けたSNAKEPIPE。
「これだっ!」
と確信し、早速写真集を買いに走った。
パッケージを外しドキドキしながら震える手でページをめくる。
間違いないっ!これこそSNAKEPIPEが求めていた写真だ!

セメント工場を中心に撮影されているこの写真集はインダストリアル好き、工場好き、廃墟好きにはたまらない垂涎モノ!
これは本当に日本なのか?と疑ってしまうほどの華麗な色彩。
近未来的(最近あまり使わなくなった言葉だな)な光景が「これでもか」とばかりに繰り広げられる。
当然ながら構図もバッチリ!
こりゃ言うことナス!グンバツな写真群だ!(笑)

出版社の「シナジー幾何学」という名前も気に入った。
ほんの小さな写真記事を観ただけなのにビンゴ!だったSNAKEPIPEは本当にラッキーだったのだろう。
1997年、畠山氏は写真家としての登竜門「木村伊兵衛写真賞」受賞!
応援している写真家の快挙はSNAKEPIPEも本当に嬉しかった。
そして自分の目に狂いがないことも証明された気がして自画自賛。(笑)
以来、畠山直哉氏の情報を探し、友人に写真集を薦めたりするようになる。

余談であるが、SNAKEPIPEが気に入った「シナジー幾何学」はなんと1998年12月に倒産してしまい、以来「LIME WORKS」は絶版になっていた。
これは友人にプレゼントしようと思い探しまくって知った事実。
あらま、あんなに素晴らしい写真集が絶版とは…。
2002年にアムズ・アーム・プレスから復刊されていたらしい。
がっ!またもや絶版に。
再復刊版は青幻舎より2004年に出版されている模様。(入手可能)
2度も絶版の危機に遭うとは悲運な写真集ですな!

1998年に畠山氏のグループ展「写真の現在—距離の不在」を東京国立近代美術館まで観に行く。
この時の畠山氏の展示は「光のマケット」。
人が全くいない夜間の高層ビルの照明—蛍光灯の光をモノクロームで撮影した写真群で、ライトボックスを写真の後ろに置いて展示している。
このため写真上の蛍光灯がまるで本当に光っているかのように錯覚してしまう。
写真展、というよりは「現代アート展」と呼ぶべきか?
なかなか興味深く拝見し、また更にファンになる。
このグループ展は他に斎藤さだむ、楢橋朝子、松江泰治、パンク写真家・金村修、という豪華メンバー!
一粒で二度おいしい企画だった。(笑)

続いて写真集第2作目の「アンダーグラウンド」について。
この写真集の出版が2000年。
記憶が定かじゃないのと古過ぎて情報が集められなかったため、うろ覚えだがタカ・イシイ・ギャラリーがまだ恵比寿にあった時にこの写真展を観に行っている。
この時の写真展は販売もおこなっていたようで、展示してある写真の横に小さな紙があり、いくつもシールが貼り付けてある。
購買者が「これ、買うよ」という印のようだ。
ちなみにお幾ら万円?と聞いてみると
「一枚35万円!」
という答えが返ってきた。(と、思う…たぶん。うろ覚えなんで)
うぎゃー!高い!
確かに素晴らしいし、お洒落なデザイン事務所などに飾ってあったらものすごく映える写真群なので、高くても買う人がいっぱいいるのも納得。
お金があったらSNAKEPIPEもオリジナル・プリント欲しかったなあ!

アンダーグラウンドは東京・渋谷を流れている渋谷川、その地下水路を撮影した写真である。
地底トンネル入り口の柔らかな光と映し出される影、それらを表現する色彩が大変美しい。
縦位置で上部を渋谷のビル街、下部を渋谷川で撮影した細長い写真群もある。
それらは注視しないと一枚の写真であることが判らない、まるで「だまし絵」ならぬ「だまし写真」のような印象。
写真集の中にはゲーテのファウストからの引用文もあり、さすがはインテリゲンチャ・畠山氏だな、と感心させられる。

畠山氏は他にも石灰石鉱山の山が爆発により砕け散る瞬間を撮影をした「BLAST」やドイツの廃工場「Zeche Westfalen I/ II Ahlen」、大阪球場の解体など様々なテーマに取り組んでいるようである。
現在はニコンサロン選考委員を務め、写真展の作品選考・決定を行っているエライ先生になってるそうで。
今後の活動にも期待、ですな!

毎月20日はソドムの市!(うそ)

【ソドムの市のポスター】

SNAKEPIPE WROTE:

久しぶりにレンタルDVDでも借りに行こう、と出かけてみたけれど、「新作コーナー」には何ひとつ気になる映画がない。
ROCKHURRAHも同じだったようで、苦労して決めたのが次の2本。
1本は2人共以前に観たことがある「ソドムの市」で、監督別コーナーだったため隣に置いてあった「デカメロン」も追加。
2本だけだけど「パゾリーニ・デイ」と洒落込むことにした。(笑)

デカメロン」はボッカチオ原作の同名小説から成っている映画だ。
デカメロンは名前は知ってても読んだことがないので調べてみると、イタリア版のアラビアン・ナイトのようなお話らしい。
時は1348年(一体何百年前だ?)ペストを恐れた男女10人が邸宅の中で退屈しのぎに10人が10話ずつ、合計100話の物語を語るお話だとか。
で、今回の映画「デカメロン」ではその中から7話が収録されている。
昔々××村でこんなことがありましたとさ、みたいな寓話や笑い話である。
パゾリーニ自身が高名な画家の一番弟子、という役柄で登場。
「夢の中のほうがうまく描けるのに、何故それでも絵を描き続けるのだろう」
と自問するところが印象的だった。

ソドムの市」はマルキ・ド・サド侯爵の「ソドム百二十日あるいは淫蕩学校」が原作となっている映画で、1975年に謎の死をとげたパゾリーニの遺作でもある。
大統領、大司教、最高判事、公爵の4人の権力者が己の欲求のために欲望の館を作り、その中で行われる様々な行為について描いている作品である。
「地獄の門」「変態地獄」「糞尿地獄」「血の地獄」という4つの構成で成り立っている。(ダンテ神曲に倣っているらしい)
「地獄の門」でその館を作るまでのお話があり、「変態地獄」からは自らの実体験を話す「語り部女」に触発されながらそれぞれのテーマに沿った話が展開していく。
前述したように「変態」「糞尿」「血」の話なので、およそ考え得る限りの悪行—-背徳的で残酷なシーンが目白押しである。
時代設定を1944年のヒトラー占領下のイタリアとしたために、よりファシズム色が強くなっている。
お、この1944年というのは「4番煎じもおいしい?」「二人の情熱男の物語」の時に書いた「ハンニバル・ライジング」の時代設定と全く同じ!
ヨーロッパにおける1944年というのが、かなり重要な年だということが解りますな。
詳細は専門書に譲りますが。(笑)

「ソドムの市」はどうしても「変態映画」として認識されてしまいがちだけれど、パゾリーニ本人には
「変態・異常性欲・残虐行為を消費社会と現代の暗喩として用い、消費市場主義・快楽主義の後期資本主義社会に無理矢理適合させられている現代人の有様を描き出そう」
という主題を持っていたようである。(DVDの中より引用)
うむ、そう聞けば「成る程!」と思ってしまうSNAKEPIPE。

そしてもう一つ忘れてならないのはイタリア、という場所。
ローマ市内に世界最小の国家「ヴァチカン市国」がある国である。
カトリック教会の総本山、全市民が何かしらの聖職者というキリスト教とは切っても切れない関係にある国だ。
そのためなのかキリスト教の「7つの大罪」(傲慢 嫉妬 憤怒 怠惰 強欲 暴食 色欲)に触れる表現が多い。

「デカメロン」の中で「姦淫は大した罪ではないと神に言われた話」とか「尼僧も男性に興味津々の話」とか「僧侶が人妻をかどわかそうとする話」など、やはりキリスト教と深い関係のある話が多々登場する。
規範、規定や規律のような厳格な約束があるからこそ、破りたくなる輩が出るのか。
日本人は武士道の影響から「恥」を最も悪いことと認識する民族だが、キリスト教徒の場合は「罪」に重い意識を持つようである。
その意識の違いを文化の違いと言ってしまえばそれまでかもしれないけど。(笑)

30年以上前の映画であるが、今観ても充分衝撃的だった。
宗教的アナーキスト(こんな言葉があるのか?)パゾリーニの他の作品も観る機会を持ちたいと思った。

鵼の碑も蜂の頭もないよ

【京極氏に使ってもらいたい?SNAKEPIPE撮影の憑き物系写真】

SNAKEPIPE WROTE:

約一月程前のブログ「妖怪に用かい?(とほほ)」で書いた京極夏彦ネタであるが、実はあれからすべての「妖怪シリーズ」を読破してしまったSNAKEPIPE!
「妖怪シリーズ」とは「京極堂シリーズ」のことである。

1994年から続く「妖怪シリーズ」を2008年現在は運良くスイスイ読み進むことができたが、全部読んでしまった今となっては次回作を悶々として待つ以外ない。
しかも次回作のタイトルだけは「鵼の碑」と教えられているけれど、詳細は全く不明。
「塗仏の宴 ―宴の始末」1998年から「陰摩羅鬼の瑕」2003年と間に5年を費やしている場合もあるようなので、現在刊行されている最後の作品「邪魅の雫」から次回作が一体いつになるのか不安になってしまう。

ということで、今回は今までの京極夏彦の作品を読後メモとして文章化しておきたい企画。
前回書いた内容と重複するかもしれないけど、あくまでも「自分自身のため」なので、あしからず。(笑)
「妖怪シリーズ」をまだ読んでいない方は「核心部分」があるかもしれないのでご注意を!

1「姑獲鳥の夏
雑司が谷にある病院が舞台になっている作品。
代々伝わるDNAと風習が核心。
多重人格、薬物としてダチュラが登場。
目にしているはずでも「見ていない」という「うそでしょ」と言いたくなるような現象が発生。
人は本来自分が見たいものを見て、それ以外は認識されない、という理論が展開される。
解るような解らないような…。
いや、確かにカメラを持っていても同じ風景を見て撮る人撮らない人、全く気付かない人、といるわけで、納得できるかな。(笑)

2「魍魎の匣
幻想小説家が実話を書くというパラドックス。
京極堂がかつて関わっていた「中野学校」の話が加わる。
残虐でグロテスクなバラバラ殺人事件。
「はこ」愛好家(密室愛好者)なる、閉所恐怖症とは逆の嗜好を知る。
実際いるかもしれないな。
「人間でいることを放棄したから幸せになった」というセリフが印象的。

3「狂骨の夢
記憶喪失と記憶の混在。
場所は逗子。
金色髑髏事件、として語られる。
キリスト教、精神分析、真言立川流の教えを知る。

4「鉄鼠の檻
箱根の禅寺。当然のように「禅」について詳しいお話が。
十牛図も載ってたし。
僧侶は名前を「音読み」するのが難しい。
作中で急に名字で○○和尚から☆☆さん、と呼ばれると一体誰だったのか分からなくなることがしばしば。(笑)
1作目の「姑獲鳥の夏」に出ていた人物が登場して、やっぱり順番通りに読まないと駄目だな、と実感。
まるで「ブリキの太鼓」のオスカル状態が描かれているシーンがある。
本当にそんなことが可能だろうか?
この小説の中で京極堂が珍しく出歩いて関口の自宅に行く件があってびっくり!
最後まで読んだらまた最初に戻らないといけない小説その1。

5「絡新婦の理
房総半島の「蜘蛛の巣屋敷」が舞台。
ユダヤ教、夜這いの風習、女権拡張運動。
京極夏彦の小説は「あっち」と「こっち」と「あれ」と「これ」が複雑に交錯して、事件になったり人物がつながったりするのだが、今回の「絡新婦の理」はそれが益々複雑に入り乱れている。
注意深く読み進めていかないと、どこの誰の話だったか忘れてしまうので注意!(笑)
「んな、ばかな!」というラスト近くは息をつかせぬ激しい展開。
最後まで読んだらまた最初に戻らないといけない小説その2。

6「塗仏の宴 ―宴の支度宴の始末
伊豆韮山。
徐福伝説、新興宗教と催眠術に関する詳しい話が展開される。
今回の「塗仏の宴 」は「支度」と「始末」という上下巻になっていて、今までよりも更に複雑な展開である。
またもや「中野学校」関連の話が出てくる。
関口が災難で、読んでるうちにかわいそうになってしまった。
いやはや、それにしても随分と壮大な計画(ゲーム)考えたもんだ!
一体次はどうなってしまうのか?

7「陰摩羅鬼の瑕
白樺湖畔の「鳥の城」が舞台。
儒教と哲学。
前作で「次はもっと大きな事件に巻き込まれるのでは?」と感想を持ったSNAKEPIPEを裏切るかのように、今回はこの館の中でのみ事件が発生する。
読んでいる途中で「もしかしたら」と考えていた通りに話が展開して、初めて推測が中った小説。
推測を見事にくつがえさせられるのが嬉しい、というのが本音なのだが。(笑)
初めて関口自身の「獨弔」という小説内小説が出てくるが、これ、まるで「魍魎の匣」の久保のよう!
当然だけどなかなか、だよね。(笑)
「陰摩羅鬼の瑕」では実在した人物(横溝正史)が関口と出会うシーンがあるのが珍しい。
あともう一つは京極堂が関口を心配して自ら出向く、という筋書きも珍しい。
但し、本当に京極堂が「憑き物落し」をする必要があったのか、は疑問。

8「邪魅の雫
そしてついにここまで来てしまった!
現在のところの最新刊、ラストである。
神奈川県の平塚・大磯が舞台。
読後に調べて見ると、京極夏彦インタビューの中で
「本来なら益田や青木程度でじゅうぶんな事件でしょ」
と作者本人が語っている。
あ、やっぱり?(笑)
今回はあまり「憑き物」ついてないんだよね!
京極堂が出てきたのは前作「陰摩羅鬼の瑕」同様、珍しい理由だったし。
石井四郎の731部隊の話やら、また「中野学校」の話が出てきて、胡散臭い感じはあったけど。
事件とか妖怪とか憑き物を抜きに感想を述べるならば、先のインタビューの中にもあったように「自分の基準で物事を判断してはいないか?」というお題目を頂戴し、考えさせられる小説だな。

短編集も「百鬼夜行―陰」と「百器徒然袋―風」を読破。
残るはあと2冊「百器徒然袋―雨」と「今昔続百鬼―雲」である。
短編集はサイドストーリーなので、またちょっと風味が違う。
脇役だった人物が主役に抜擢されていたりして、「その人となり」を理解し易くなっている。
こちらも完読したいところだ。

京極夏彦の小説の魅力はストーリーやキャラクターだけではなく、氏の表現にも感じられる。
京極堂の仏頂面を表す数々の言い回し(葬式を20も梯子したような仏頂面、など)や、「しかしもお菓子もないよ」といったような駄洒落風の表現もある。
そしてかなり多用されているのが「~も蜂の頭もない」という言い方。
この表現は一般的に使われるものなのかと調べてみたら、「~もへちまもあったもんじゃない」と似た言い回しのようで。
また一つお勉強になったね!(笑)

まるでSNAKEPIPE自身が「取り憑かれた」かのように、熱心に読み進めて来た京極夏彦の本であるが、ここでしばしの休憩を余儀なくされてしまった。
ミステリーやホラーなどと分類しきれない、ユーモアのある「妖怪シリーズ」の次回作が待ち遠しいな!