ふたりのイエスタデイ chapter19 /Altered Images

20200830 top
【オルタード・イメージの1st アルバム】

SNAKEPIPE WROTE: 

学生だった頃、SNAKEPIPEが所属していたのは美術部だった。 
当時はシュールレアリスムという言葉すら知らずに、想像画を描いていたっけ。
写真を見ながら似顔絵を描くのも好きで、クラスメイトに頼まれて描いたこともあった。
アントニオ猪木を色紙に描いて欲しいとの注文を受け、そっくりに描けたのは良かったけれど、顔が長過ぎて色紙から顎がはみ出るハプニングがあったことを思い出した。
それでも似ていたので、友人は本当に喜んでくれたっけ。(笑)
忌野清志郎を描いた時は、自分でもびっくりするほど上出来で、友人に絵を渡すのをためらうほどだった。
こうして思い出してみると、SNAKEPIPEは絵の才能があったのかもしれないね?

当時のSNAKEPIPEにとってアイドルだったのは、オルタード・イメージの紅一点、クレア・グローガン!
クレアちゃんは1980年代初頭のイギリスでも大人気で、ファッション・リーダー的な存在でもあったらしい。
クレアちゃんはリチャード・ギアのファンで、もし彼氏だったら閉じ込めて一歩も外に出られなくする、と雑誌で読んだ遠い記憶が。(笑)
なんでこんなどうでもいいこと覚えてるのかね。
SNAKEPIPEが自分のために似顔絵を描いたのは、このクレアちゃん。
使用したのがこの画像なんだよね!
当時見ていた画像があって良かった、と安堵したのも束の間、これは「透かし入」のストック・フォト…。
他にないのかと探したけれど、見つからなかったのが残念。
この画像を見ながら鉛筆で似顔絵を描いたなあ。(笑)
懐かしい!

ここでオルタード・イメージについて少々説明を。
2018年1月にROCKHURRAHが書いた「俺たちハッピー隊」の内容と重複するけどね!
スコットランドのグラスゴーで1979年に結成されたポスト・パンク/ニューウェーブ・バンド。
メンバーは5人で、全員がスージー・アンド・ザ・バンシーズの公式ファンクラブのメンバーだったという。
そのため結成当時は、バンシーズみたいなダークな音楽だったというけど、クレアちゃんの声とはアンマッチだよね。(笑)
バンシーズがスコットランドでギグを行った時デモテープを渡し、その結果1980年の「カレイドスコープ・ツアー」の前座として同行したという。
オルタード・イメージの名前を有名にしたエピソードなんだね。
そして1981年、イギリスのヒットチャート2位を記録する大ヒットが「Happy Birthday」だよ! 

本当は公式プロモーション・ビデオが良かったんだけど、なぜだか「お住いの国では再生できません」って出てきちゃうんだよね。
当時のSNAKEPIPEも好んで聴いていた曲だよ。
飛び跳ねて歌うクレアちゃんもかわいいね!
この曲は2005年に発売されたロンドンナイト25周年記念特集のCDにも入っていて、とても懐かしかったなあ。

オルタード・イメージは、ヴォーカルのクレアちゃんだけがクローズアップされていたため、他のメンバーについては良く知らないんだよね。(笑)
どうやら画像の右から2番目の男性(Steve Lironi)と結婚したみたいだけど、それは調べて知ったこと。
オルタード・イメージは1983年に解散したけれど、ヒットしたのは1曲だけじゃないんだよね。
今でも80年代を特集するインターネット・ラジオを聴いていると、何曲もかかるし。

解散後、クレアちゃんはソロになったけれどパッとせず、女優業に専念したらしい。
今でも活動してるようで、17歳からのキャリア40年とは驚きだよ。
クレアちゃんと「ちゃん付け」で書いているけど、もう58歳だからね。

最後にもう1曲、「I Could Be Happy」を載せようか。
当時を思い出しながら、気持ちを少女に戻してみよう。
これもSNAKEPIPEにとっての若返り療法だよ!(笑) 

ニッチ用美術館 第6回

【前回と色合い、音楽が違うだけ。次はもっとがんばります】

ROCKHURRAH WROTE:

久しぶりに登場するROCKHURRAHだよ。
3/1以降全く書いてなかったからね。

「ステイホーム」などと言われて久しいが、ROCKHURRAHは毎日どうしても外に出なきゃいけない業種なので、人との接触を7〜8割減など到底出来ないのが恨めしい。
本当は家でやることいっぱいあるし、ステイホーム大好きなのにね。「家にいなきゃならない」なんて言ってる人たちが羨ましいよ。
5/2からはGWでようやくゆっくり出来ると喜んでる。

ニュースで毎日のように渋谷の街は人が激減とか電車はガラガラなどと報じているけど、ウチの近所なんていつもと全然変わらない状況。朝にはアクティブ・シニアたちのウォーキングやジョギング、バス待ちの行列、スーパーはどこに行っても人で溢れかえっているよ。自粛なんてあったもんじゃない。
こんなに無防備な人々が何でマスクだけは目の色変えて欲しがるのか、理解に苦しむよ。

さて、これまた久々、ROCKHURRAHが独自のセレクトでレコード・ジャケットを展示するシリーズ企画「ニッチ用美術館」の6回目を開催してみよう。
ステイホームでヒマだからってROCKHURRAHのブログを読んでる人はほぼいないとは思うけど、一応説明しておこう。
このシリーズ企画は1970年代のパンクや80年代のニュー・ウェイブばかりを今でもずっと聴き続けて語り続ける変人、ROCKHURRAHが「何かちょっといいぞ」と気になったレコードのジャケットを美術館っぽい展示でいいかげんなコメントをするだけというもの。
時代の隙間に埋もれてしまったようなバンドも取り上げるし、美術と80年代音楽文化の狭間を埋める、などという意味合いを込めてニッチ用などとタイトルにつけたが、その内容はどうだろうか?ヒマと興味のある方はぜひ読んでみてね。

今回の「ニッチ用美術館」では、マネじゃないけど偶然似てしまった雰囲気のジャケットを特集してみたので、同じチャプターの中に2つ(場合によっては3つ)のジャケットを展示しているという趣向。

ROOM1 睛眸の美学 

睛眸は「せいぼう」と読み、瞳や黒目の事らしい。うーむ、ROCKHURRAHもそうだが、この歳になるまでこんな漢字書いた事ないよって人も多いに違いないし、たぶん日常的には使わないはずだよね。
「睛眸スデニ輝キヲ失匕ケリ」などとどこかの文豪が書いてそうだけど原典は不明。
そんな睛眸を自分たちのキャラクターでうまく表現したジャケットがこれ、1980年に発表されたレジデンツの「Commercial Album」だ。向かい合ってる人の目玉が実はメンバーの顔だったっていうデザインだけど、いちいち書かなくてもわかるか。

現在では謎の覆面集団として名を知られるバンドだがその歴史は1960年代後半から始まっていて、詳しい歴史はWikipediaあたりで調べてみればすぐにわかるだろう、などと最初からいきなりの説明放棄でいいのか?この企画?
ROCKHURRAHはリアルタイム(初期は70年代)ではさすがに聴いてないけど、まだレジデンツについてあまり人が語ってないくらいの時代には何枚か持っていた。
どちらかというとアメリカよりもイギリスの音楽に興味があったROCKHURRAH(当時まだ少年)だが、レジデンツやペル・ユビュ、リディア・ランチにコントーションズなどは早くから注目しててアメリカ嫌いなわけではない。ポップなものもアヴァンギャルドなものも同時進行で愛してきたから、この頃の音楽的嗜好はしっちゃかめっちゃかだったな。まあそれこそがニュー・ウェイブ初期を通過した人たち共通の思い出だと言える。とにかく情報が少なかったからレコード探しも当たりを引くかどうかの博打みたいなもんだったからね。

レジデンツの音楽を最初に聴いた時は従来のロックとは明らかに違うとは感じたが、そこまで前衛的だと思わずにすんなりと受け入れてしまった。元々プログレとかロクに知りもしないくせに聴いてたような子供だったから、ロック的にはこうあるべしという固定観念もなかったのが逆に良かったんだろう。

ペル・ユビュやレジデンツはカセットテープに録音して、ヤマハのスクーターに乗り誰もいない工業地帯の空き地に出かけて、ヘッドフォンで一人聴きながら過ごしていたもんだよ。
色んな記憶をなくしてしまったけど、あの時の空も服装もなぜだか今でも覚えてるのが不思議。

テープ・コラージュによる奇妙でアンバランスな、断片的とも思える楽曲は既存の商業ロックを嘲笑うような毒々しさに溢れていたけど、強烈なノイズとかではなかったからソフトな主旋律だけが脳に残るような感じ?
表現力が乏しいから陳腐で意味不明だけど、何十年も経った今でも彼らの曲を口ずさむ事が出来るのは、やっぱり強いインパクトがあったからだろうな。

「Commercial Album」はレジデンツの中では聴きやすいとされてるアルバムで、1分の曲が40曲入った架空のCMソング集みたいな感じ。上のビデオはおそらくオフシャルなものじゃなくてアップロードした人のオリジナルなのかどこかから集めたものなのか出典が不明なんだけど、アニメーションがきれいで気に入ったよ。
視聴回数が今日の時点で85回、チャンネル登録者数22人しかいなくて不憫だから、YouTubeに飛んで(リンクして)ぜひ全曲観ていただきたいものだ。
おっと、久しぶりにブログ書いたから自分がどんな語り口だったのか忘れてしまって、大真面目に語ってしまった。あの時の空は覚えてるくせにね。

西川きよしもビックリのこの睛眸、これもインパクト大のジャケットだな。
目玉飛び出たキャラクターが最も登場する漫画と言えば日野日出志が日本一だと思うが、子供の時は夢に出てくるほど怖い漫画をよく読んでいたな。楳図かずおとどっちが怖いか、などと友達と真剣に議論していたのも思い出す。
日野日出志はギャグ漫画的な絵柄なのに不気味でグロくて怖い話というギャップがあり、そのバッド・テイストを愛好する人も多かったよね。
人の名前や色んな事をすぐに忘れてしまうROCKHURRAHだが、「蔵六の奇病」や「幻色の孤島」「毒虫小僧」など今でもスラスラタイトルが出てくるという事は、それだけインパクトが強かったってわけだね。個人的にはちょっと地味だが「百貫目」とか、本当にあったかも知れないなと思える話が好きだったけど、うむ、自分でもさっきから気づいていたがこの思い出話に睛眸要素はひとつもなし。ついでにニッチ用美術館でアート的に語る要素もなし。
しかも冷静に見れば目玉ビョッコリ以外は特に似てもいないかな。

そんな不気味なジャケットで話題となったのが、1984年に発表されたエイリアン・セックス・フィーンドの2ndアルバム「Acid Bath」だ。その前後にカセット・テープでの作品をいくつか出してるけどね。
カセットをダビングするのは大変と思うけど、たぶん何百本とか作ってライブ会場やレコード屋に頼んで売ってたりしたんだろうな。この時代のインディーズ・バンドはこういう地道な活動でファンを増やしてたもんだよ。
エイリアン・セックス・フィーンドは1980年代前半にイギリスの音楽シーンで大流行したポジティブ・パンクの代表的なルックスと音楽性を持ったバンドだった。
ポジティブ・パンクという言葉自体が誰かが勝手につけた名称で、同じ音楽性を指す言葉も例えばゴシックだのダーク・サイケ、ダーク・ウェイブだの、ちょっとずつニュアンスは違うんだろうが複数存在してるのがややこしい。
日本では略しやすいからかポジティブ・パンク、ポジパンとみんな言ってたな。
当時を知る人には説明の必要もないが死体やゾンビのような白塗りメイクで不健康、退廃の極みといった雰囲気を持ち、多くのバンドは反キリスト教っぽい歌、ジャケットやバンド名のロゴなどもワザと不気味なモチーフ。こういうバンドが数多く現れてきてブームを作っていった。セックス・ギャング・チルドレンやサザン・デス・カルト、ヴァージン・プルーンズやスペシメンなどなど。

ROCKHURRAHはヴィジュアル的にこういうバンドのマネをした事はないが、元々ホラー映画など不吉大好きな傾向があったから、すごーくのめり込んでこのジャンルを片っ端から集めまくっていたな。本当は上に挙げたバンド名の何倍も、この手の音楽のものはとりあえず買っていたくらい。
白塗りメイクじゃないバンドもこのジャンルにはいたし、同時期に同じようなゾンビ・メイクでサイコビリーのいくつかのバンドも活動してたから、初心者にとってはますますわかりにくいジャンルだったな。

ポジパンがイギリスでブームになった一因は、ロンドンにあったバットケイブというクラブにそれ系の人が集結していたというのが大きいと思う。元はアンワンテッド(カタカナで書くと情けない)というパンク・バンドにいたスペシメンのオリーやそのメンバーが主催していたポジパンの一大聖地、そこに行けばポジパン界のスター達を間近で見れるというならファンは地方からも詰めかけるに違いない。
バットケイブに集っていたバンドのコンピレーション「Batcave Young Limbs And Numb Hymns」というレコードが出てて愛聴していたが、その中にもこのバンドは収録されていたな。
個人的にはヴォーカリストののっぺらした長い顔が嫌いでエイリアン・セックス・フィーンドはあまり好きなバンドではなかったけど、日本ではポジパンの代表バンドみたいな扱いでなぜか人気が高かった。
ビデオも新宿のツバキハウスでのライブ映像だが、ゴシックともポジパンとも言いかねる普通の聴衆に囲まれて勝手が違う様子。しかしライブは思ったよりちゃんとしてて、さすが百戦錬磨の外タレだな。
しかし熱演してるのに悪いが、美形ヴォーカリストが多いポジパンの中では異質に感じてしまうよ。
間延びした顔とパンダ目と白塗り化粧により、カッコ良さを通り越して滑稽さ、不気味さが際立ってるよね。

おっと、久しぶりに書いたからこの企画がどういうのだったか忘れて、いつもと同じような調子で書いてしまったよ。美術館的要素もほとんどないと思えるが、ROCKHURRAHの書くものはいつもワンパターンだと思ってれば間違いなし(偉そう)。

ROOM2 伯纳德の美学

どう見ても日本で普通に使われる漢字じゃないから「読めん!」のも当たり前だとは思うが、これは中国語で書いた人名ベルナール(またはバーナード)の事らしい。日本では外人の名前はカタカナにするけど中国では当て字や独自の漢字を用いるからね。ベルの部分がベルリン(伯林)と同じなのはわかるけど。
第5回の記事でアンナ・ドミノを書いた時に苦し紛れで中国表記を使ったのと同じパターンだな。
SNAKEPIPE MUSEUM #02 Bernard Faucon」でも書かれていたフランスの写真家ベルナール・フォーコン(フォコン)の作品がそのまんまジャケットに使われているのがこれ。ROCKHURRAHは個人的には写真家について詳しくはないが、写真の道を志していたSNAKEPIPEの話やブログで知った一人がベルナール・フォーコンだった。少年のマネキンを使って日常的、あるいはちょっと非日常的な光景を撮った写真で有名らしい。
後ろが火事なのに談笑してる子供というシチュエーションがどういう意図なのかはわからないけど、無邪気な子どもたちというよりは、三島由紀夫の「午後の曳航」に出てくる少年たちを思い出したよ。え?知らない?自分で調べなさい。

最近の子はどうか知らないけど、ROCKHURRAHが子供の頃はG・I・ジョーという米軍兵士のアクション・フィギュアが流行っていて、これで遊んだって人も多いと思う。これが高かったのかコンバットに興味なかったのか覚えてないが、ROCKHURRAHはタカラが出してた変身サイボーグという亜流のおもちゃで遊んでいた。全身が可動するのは一緒だが本体は透明になってて、これに例えばウルトラマンとかの着ぐるみを着せて変身するというシロモノ。ちょっと伸びるビニールかゴムかの素材で出来たピッタリのスーツは着せるのも脱がすのも一苦労で、確か無理やり脱がそうとして生地が破れた情けない思い出があるよ。

ちなみにずっと後にはミリタリーに傾倒するROCKHURRAHだが、この当時は兵士ではなくモデルガンに興味があった。コルト・キャバルリーや357マグナム、南部十四年式やベレッタという意味不明の傾向(時代も国もバラバラ)で集めたモデルガンをぶっ放したり、わざわざ福岡のMGC(というモデルガン・メーカーの直営店?があった)まで買いに行ったりしてたもんな。 ん?思い出話はもういい?

ベルナール・フォーコンの作品のアート的主題とかについては漠然とわかる気はするが説明する気はない。
ただG・I・ジョーを実物大の球体関節人形にしたら、ROCKHURRAHでもこういう着せ替え遊びをしたり写真も撮るだろうな、という衝動はあるよ。周りの人がもっともらしく意図を考えるけど、アーティスト自身は案外遊びの延長だったりするかな、とも思う。

そんな伯纳德の写真が発表されたのと同時期にジャケットに採用したフランスのバンドがJoli Garçon、1980年リリースの「Tarawa Pacifique 」というアルバム。バンド名はジョリ・ギャルソンでいいのかな?
フランス語でかわいい少年というような意味だからジャケットそのまんまだね。ベルナール・フォーコンの作品がどういう経緯でこのバンドのジャケットに使われたかは全く不明だけど、割と有名な写真作品をほぼリアルタイムで使用するとは贅沢だね。その心意気の割には世間的にはたぶん知られてないバンドのまま終わったっぽいし、アルバムもこの1枚のみしか出してない。

フランスは元々ロックがあまり根付いてない国という印象があるから、従来のロック的なものを排除したようなタイプのニュー・ウェイブが好まれるのかも知れない。このバンドを聴いた印象はフランスのパンクの延長とかフレンチ・ミュージックのニュー・ウェイブ的解釈と言うよりは、もっと無国籍などっかの歌謡曲をニュー・ウェイブ風にアレンジしたみたいに感じたよ。
悪い意味ではなくてイギリスのニュー・ウェイブを聴き慣れた耳には新鮮だとは思った。
しかし演奏に自信あるのか知らないが曲によってはイントロや間奏がちょっと長めで、そこが冗長で人気バンドになれなかった原因かもね。

本家が出てしまった後ではちょっと苦しいが、同じようにマネキンを使ったジャケットないかと思って探したらこれが見つかった。
1983年に発表されたゼルダの2ndアルバム「Carnaval 」だ。
単にマネキン使って外で撮影してるところが共通点なだけで「偶然似てしまった雰囲気のジャケット」というほどではないけど、ROCKHURRAHの情報収集能力なんてせいぜいこの程度。

日本のパンクやニュー・ウェイブには疎いROCKHURRAHなんだが、ゼルダもバンド名やメンバーの顔は知ってても曲の方はあまり印象にない(この当時)というのが正直なところだった。
メンバー全員女性のバンドで演奏面でのハンディキャップとかあるだろうに、長く第一線で活動して支持されてきたという事実は揺るぎないし、この世代で日本のガールズ・バンドと言えば必ず名前が出てくるのも間違いない。 革新的なものに目を奪われがちのニュー・ウェイブの世界だったが、代表的に生きるというのも難しい事だと思うよ。

代表的なだけに残ってる映像も多いんだが、なぜか「Carnaval 」からの動いてる映像があまりなかった。
これは大貫憲章とNOKKOが司会やってたTV番組のもの。ゼルダと言えば確かにこういう服装でこういう帽子だったなと記憶がよみがえる。ついでに大貫憲章もこういう帽子がトレードマークだったな。
懐かしき黄金時代の80年代だね。

ROOM3 經緯の美学

今回は自粛とか言って二つ目までのチャプターで許して貰おうかと思ったけど、最後がゼルダじゃROCKHURRAHらしくない、などと思って無理してしまった。
久々に出かける用事もない連休だから、もう少し頑張るか。

經緯と書いて「けいい」と読む、あるいは「いきさつ」では当たり前すぎるのであまり一般的じゃないこの読み方を敢えてしてみよう。一般的じゃないと書いたものの、元々は織物で使われる用語でこれを「たてぬき」と読むらしい。こっちの方がオリジナルだったとは。
そう言えば地球の縦横には経度、緯度などという見えない線が引かれてるようだがこれも經緯だな。

日本では縦書きも横書きも漢字もカタカナもひらがなもあり、文字にとっては万能の便利な国だけど、外国人にとってはややこしいに違いない。英米でも縦の看板には英語が縦書きされてはいるけど。
この縦横文字を効果的に使ったのは市川崑監督の横溝正史シリーズがよく知られてるね。あの時代には斬新でスタイリッシュに見えたし、影響を受けたエヴァンゲリオンとかでもさらに多くの人に知られた。うーむ、それさえもすでに20年以上昔の話か・・・。 

そんな經緯をうまくあしらったジャケットと言えばこれ、1979年に発表されたクラッシュの3rdアルバム「London Calling」と言いたいが、多くの人が知る元ネタは1956年、エルヴィス・プレスリーのこのレコードだろう。ただ、たしなみとしてプレスリーを多少は知ってても、ウチの専門はパンク/ニュー・ウェイブだからこれを語るのはちょっと違う。
オリジナルをすっ飛ばしてクラッシュの方から語らせてもらおう。
ってほど語る内容もないよう。
誰でも知ってるパンクの王道音楽だから敢えてヒネたROCKHURRAHが語るような切り口も見当たらないなあ、家でSNAKEPIPEとは語っているけどね。ROCKHURRAH家はいつまでも時が止まった80年代で羨ましかろう?
一部でしか知られてないがある方面では絶大な人気を誇った漫画家、桜玉吉の漫画に精神を患った作者本人と担当者が突然、「PILのライブ行ってきた?」というような今が80年代真っ盛りみたいなギャグが始まって大いに受けたのを覚えてる。患ってるから現実逃避して、楽しかった80年代にトリップしてるという見事な描写なんだが、事情を知らない人からは「何これ?」と言われるようなカルトな魅力を持ってたな。ウチの場合はナチュラルに80年代会話が出来るからそれが素晴らしい。

ROCKHURRAHがまだパンクにのめり込んでいた少年だった頃。
レコードは買ったり図書館の視聴覚室に行って聴いたりしたけど、一番苦労したのがファッション面だった。住んでいた北九州の小倉はパンクな服などまだ手に入らず、自分で破いたり染めたり、かなり情けないパンクのつもり少年だった。この辺が金さえ出せば一応それっぽいパンクな身なりになれる東京との大いな温度差だと思ってた。地方のコンプレックスというヤツだね。
そんな小倉の旦過市場横、80年代くらいの話で今の小倉とは大きく違うはずだがゼマック・ホラヤという紳士服チェーン店があり、入り口の横を曲がった先に古い靴屋があった。そこの店先に店のオリジナルっぽい理想的なラバーソールの靴が置いてあり、ずっと憧れていたのを思い出す。その当時でも福岡に行けば確かどこかでロボットのラバーソールが手に入ったはずだが、それよりも遥かにデザイン的に優れていた。
かなり高かったから憧れていても結局買う事はなかったけど、地方の田舎町のおっさんしか行かないような店でなぜラバーソールが置かれていたのか不思議。

話が各方面に飛んでROCKHURRAHの脳内經緯がわからない人には意味不明だろうが、連想が連想を生んだ先だけを突然言い出すのでそうとうに理解されないタイプだろうな。やっぱり何か患ってるのかもね。

「London Calling」はパンク史上に残る名盤だとは思うが、個人的には1stや2ndの方がが好きだ。などと言ってはこの企画が成り立たないからこのビデオをチョイスした。
これは1982年に中野サンプラザで行われた来日公演の模様。何と当時、NHKの番組でTV放送したという伝説の映像だ。ROCKHURRAHも実家のビデオで録画して持ってたが、β規格が廃れてから再生出来る機器がなく、いつのまにか消失してしまったな。
労働組合か運動会で使いそうな「団結」の鉢巻き、ジョー・ストラマーが巻くとこれさえもカッコ良く見えてしまうのがクラッシュのすごいところ。 

クラッシュのジャケットは各方面に絶大な影響を与え、これをマネしたりパロったジャケットも色々出てきた。探せば他にもたくさんありそうだけど、本日の展示はこれでおしまいとする。
1995年に発表されたレッド・ホット・ロッキン・フッドのシングル「Red Hot Warrior」が題材の秀逸さでは一番だと思ってるよ。重量物のウッドベースだからインパクトも強烈。この後本当に打ち壊したのか?それは不明だがROCKHURRAHだったら勿体なくて出来ないな。

 レッド・ホット・ロッキン・フッドは1990年代後半に大活躍した日本のサイコビリー・ミクスチャー・バンドだったが、メンバー全員が後に別のバンドで活躍したというインディーズ界のスーパー・バンド。
日本ラスティック界の大御所、東京スカンクスから影響を受けて始まったというこのバンドは高速スラップ・ベースと何を言ってるのか聞き取れないふざけた歌い方、スカンクスにはない爆音ギターなどの要素がうまくミックスされて、その筋では大人気だった。うーむ、しかしこれもまた20年以上前の話。月日が経つのは早いね。

「ドクターペッパー」はノリやすく大合唱しやすいから大人気の曲。ちょうど彼らが活躍してた頃にROCKHURRAHは東京にいなかったから、ライブには行けなかったのが悔やまれる。上のジャケットのシングルとアルバムでヴァージョンが違ってるけど、どちらも最高。

以上、今回はひとつのチャプターで2つのバンドを書いたから疲れたし、ニッチ用美術館の企画自体がかなり面倒ではあるけど、自分でも好きなシリーズだから、また書いてゆきたいよ。

ではまた、DaH jImej !(クリンゴン語で「さよなら」)
  

ふたりのイエスタデイ chapter18 /JAPAN

20200412 02
【JAPANのアルバム 「Tin Drum」】

SNAKEPIPE WROTE:

2020年2月に「ふたりのイエスタデイ chapter17 /Sigue Sigue Sputnik&RUN DMC」 を書いてから、
「一番最初に行ったライブはなんだろう」
と思ったSNAKEPIPE。
先週書いた「ROCKHURRAH紋章学 アルコール・ボトル アーティスト編」でも、POGUESのライブに行ったことを思い出したり、過去には意外と「来日公演」に行っていたからね。
じっくり考え、遠い記憶をたどってみる。
「そうだ!JAPANだ!」

動画を載せたのは、恐らくSNAKEPIPEが一番最初にJAPANを見たであろうプロモーション・ビデオ。
「Life In Tokyo」は1979年の曲だって?
今から何年前かと考えると恐ろしい。(笑)
2015年2月に書いた「ふたりのイエスタデイ chapter07 / Duran Duran」でも登場した「火曜日だったか水曜日の夜7時から始まるローカル番組」で、見たんだよね!
この番組は司会者が進行役となり、独自のセレクションでプロモーション・ビデオを流していた。
リクエストにも応じていて、JAPANはよく流れていたっけ。
このちょっとモヤがかかったような白っぽいバックに、ハレーションが起きているような強いスポットライトに浮かび上がる前髪長めのヴォーカリストの映像は、何度も見たよ。
いつもリクエストが一番最後だったので
「それでは皆さん、また来週!」
と司会者が言った後、ほんの何十秒かだけ映像が続き、CMで終わってしまう。
そのため、今回初めて全編を視聴したよ。(笑)

ここまで「JAPAN」と何度も書いているけれど、「日本がどうしたって?」と思う人も多いかもね?(笑)
「JAPAN」というのは、1974年にヴォーカルのデヴィッド・シルヴィアンを中心にイギリスで結成されたバンドなんだよね。
「なんとなくJAPANという響きが浮かんだだけ」(Wikipediaより)という、あまり意味のない理由により、バンド名を決めたというデヴィッド・シルヴィアン。
イギリスではパッとしなかったのに、日本では大人気!
バンド名も親近感を増す要因だったのかもしれないけど、なんといっても女子が好んだのはそのルックス。
まるで少女漫画に出てきそうだもんね!
JAPANの曲はほとんどデヴィッド・シルヴィアンが作詞・作曲していたことも、今回初めて知ったよ。
ギターもピアノもこなすし、天は二物も三物も与えてるじゃないの!
何故か写真家・作家の藤原新也と親交があり、以前藤原新也のHPで一緒にモーターボートに乗っている画像を見たことがあるよ。
アルバムのジャケットに藤原新也の写真が使用されているんだって。
バンド名だけじゃなくて、実際に日本との関わりも深いみたいだね。

JAPANのベースはミック・カーン。
ミック・カーンのベースは、一度聴いただけで特徴をつかむことができるほど。
うねるような音なんだよね。
何か奏法名があるのかもしれないけど、ミック・カーン以外でこんなベースは知らないよ。
ジャズとかフュージョンで使われることが多いフレットレス・ベースをロックの世界で個性的に使ったのがミック・カーン、ということになるみたいだね。
真っ赤な髪で真っ赤なスーツ、ギロギロした目!
一見強面に思えるのに、実は猫好きだって。(笑)
さすが猫がいっぱいいるキプロス出身だけあるよね。

上に載せた「Visions Of China」が発表されたのが1981年。
同じ年に日本で出版された「MUSIC LIFE」新年号の表紙を飾るJAPANのメンバーだよ。
メンバーについて、ヴォーカルとベースしか書いていなかったけれど、この画像をもとに少し説明してみよう。
上の左がドラムのスティーブ・ジャンセン。
中央にいる金髪のデヴィッド・シルヴィアンの実弟なんだよね。
並んで写っている画像によっては、似て見えることもあるよ。
言われないと分からないことが多いかも?(笑)
上の右はミック・カーンでしょ。
下の左がキーボードのリチャード・バルビエリ。
モノトーンの服装が多い印象があるよ。
口紅も黒かったしね?
下の右がギターのロブ・ディーン。
2015年8月にROCKHURRAHが書いた「ロックンロール世界紀行 Transit05」によれば、この頃の「MUSIC LIFE」にJAPANが登場することが多かったという。
表紙だったりグラビアで特集される、とかね。
そうしたことも日本での人気につながったんだろうね。

JAPANの初来日は1979年で、最初から日本武道館で公演を行っている。
恐らく当時の最大収容人数を誇る会場が日本武道館だったんじゃないかな?
チケットが完売できるほどの人気だったってことだもんね。
SNAKEPIPEは、その時代より少し後輩にあたるので(笑)、ライブを観たのは1982年の武道館だよ。
チケットが余ったから誰か行かない?と学校の先輩から誘われ、実はあまりJAPANを知らないのに思わず手を上げてしまったんだよね。
そのチケットはとても良い席で、1階席の前から数えたほうが早いようなステージに近い席だった。
曲を聴くというよりも、 メンバーの顔を見に行った、という感じかな。(笑)
一番人気はヴォーカルのデヴィッド・シルヴィアンだけれど、実際にステージを観たSNAKEPIPEに強いインパクトを与えたのはミック・カーンだった。
笑いながら瞬きをしない鋭い目つきで軽いステップを踏み、ベースを弾く。
ステージを右に左へとカニ歩きする様は、今でもはっきり覚えているよ。
そのミック・カーンは2011年にガンのため亡くなっている。
52歳じゃ若過ぎるよね。

今回JAPANについて調べていたら、思っていたよりも多くの曲を知っていたことが分かったよ。
そのうちの1曲がこの「Adolescent Sex」(1978年)だった。
曲は聴いたことがあったのに、JAPANだとは知らなかった。
初期の頃はロック色が強かったんだね。

JAPANは1982年に解散している。
SNAKEPIPEが武道館に行った翌年ということになるね。
一度でも実物を観られて良かったよ!

JAPANは、遅過ぎたグラム・ロック、早過ぎたニュー・ロマンティックという微妙な立ち位置のバンドだったのかな。
デヴィッド・シルヴィアンの知的さと美意識のためなのか、ヒット・チャートを独占するようなキャッチーな代表曲には恵まれなかったのかもね。
ただし、それは音楽性の高低についての話ではない。
恐らくJAPANは様々なミュージシャンに影響を与えているバンドには違いないし、いわゆる美形ビジュアル系バンドの元祖だろうね。
今回改めて振り返り、そんなことを思ったSNAKEPIPEだったよ!

俺たちドイト系

【何だかわからないがDIYっぽい映像、本文とは何も関係なし】

ROCKHURRAH WROTE:

先日、用事があり家の近所のドイトに行ってみると「この度、ドイト各店舗の運営がPPIHからコーナン商事株式会社に承継されたことに伴い、2020年1月27日(月)より全店休業とさせて頂いております」などと入り口に書いてあって営業してなかったのでビックリした。
ドイト、などと書いても近場にこの店がある以外の全国の人にとっては「何それ?」だろうけど、確かドン・キホーテ傘下のホームセンターの名称だ。
調べてみると東京、埼玉、福島などの一部の地域にしか店舗がないためにあまり知名度はないと思うし、ROCKHURRAH家の二人もたまたま越した近くに店舗を見つけただけで、それ以前にはドイトなんてものも知らなかったよ。
以前は千葉に住んでいたため、「ホームセンターと言えばコーナンPROショップかスーパー・ビバホームに限る」と二人で語り合っていたものだった。
引っ越した先は都内で、そこまで巨大店舗が近場にはないし困っていたところ、実は歩いてゆけるほど近所にそういう名称のホームセンターがあると知って、喜んだのだった。ちなみに一部の地域を除いて全国展開しているカインズも歩いてゆける距離にあったので喜びは二倍・・・ってほどには利用してないけどね。

この冒頭でもわかる通り、ROCKHURRAHとSNAKEPIPEはホームセンターが大好きなのだ。
10年くらい前は近くにコーナンPROショップがあるところに住んでいたため、大型連休の恒例行事みたいにスチールラックを買っては作り、部屋の配置換えなど作業に明け暮れていたものだ。
一般家庭にはここまでないと思えるくらいにスチールラックをさまざまな事に活用してて、物流倉庫を部屋にしたみたいな暮らしをしていた。大量の服を所有しているのでクローゼット=スチールラックだらけの部屋、というイメージだ。
これがアダとなって引っ越しの時はスチールラックの解体と組み立てに明け暮れる毎日。イヤになるくらい作って分解したものよ。
ラック以外でも何に使うのかよくわからない小さな金属パーツやボルトやナットなどなど、使う用事はなくてもついつい見てしまうのがウチの特色。二人ともそういう嗜好が似通っていて良かったよ。

ちなみにコーナンは割と全国に展開しているから知名度が高いホームセンターだと思うけど、現場関係のプロが揃えるだけの資材を扱っているPROショップまで併設されていると魅力倍増だ。
ドイトは他の店舗を知らないから近場だけに限って言えば、店構えや広さはそこまで大した事はなく普通のホームセンターに見える。が、中は意外とマニアックにPROショップやスーパー・ビバホームなどと同じような様々なパーツや工具を扱っていて、そこが良かったんだよね。
ドンキ系列からコーナン傘下になって何が変わるのかは不明だけど、リニューアルしたらまた行ってみよう。

さて、この導入部が一体今回のブログ記事とどうつながってゆくのか、みなさんも興味津々だとは思うが、ドイトという不思議な店名がカギとなっている。
ウチも「ドイトってなーに?」と思って近場だから試しに行ってみたらその疑問が氷解した(大げさ)のだ。
この店は大胆にもDO ITと書いて、これをドイトと読ませてると気付いた時は腰が抜けたよ(さらに大げさ)。
ローマ字くらいは何とか読めるけど英語はさっぱり、というおばちゃんとかがそのまま読んだのを大胆に店名にしたのか、逆にネイティブな発音を聞いてそのまま店名にしたのか?創業者が土井さんだったとか?などと気になって仕方がない。

ドイトの名前の由来はDo It Yourself(自分でやれ)からだと思うが、この頭文字D.I.Yが日本でも言われはじめたのはいつごろからだろう?ROCKHURRAHが育った北九州には大昔からナフコと言うこれまた意味不明な店名のホームセンターがあったけど、子供の頃からおそらくDIYコーナーとかあったと思う。
スチールラックを頻繁に作る割には日曜大工への興味はあまりないROCKHURRAHだが、ヒマと金と場所があったら自分で何でも手作りするのは楽しいだろうね。

ロックの世界でも卓越した演奏テクニックがなくても、自分たちだけで何とかやるDIY音楽としてパンクやニュー・ウェイブ、さらにパーソナルになった宅録なども生まれたが、出来上がりの良し悪し、オリジナリティのあるなしに関わらず、何かを創造する事は楽しい事だと思う。
音楽に限らずROCKHURRAHもSNAKEPIPEもそういう自作への情熱というか欲求が似通っているために、一緒にいて刺激しあえるところがいい。最近は色々と自作とは遠のいてるけどなあ。

いやー、今回は前置きが非常に長かったけどやりたい企画は単純明快、そう、ズバリ「Do It」が入った曲特集なんだよ。この展開で全く違うキーワードだったら逆にビックリだろうけどな。
いつもと違うのはDo itと入った曲をいくつか思い出したわけじゃなくて、この前置きだけ先に思いついたという逆さまだった事。結果を先に書くならいっぱいあるかと思った「Do It」はあまりなくて、今回もまた企画失敗の香りがぷんぷんしてきたよ。
まあそういう精神からすれば、失敗を恐れずにDo it(ドイト)!って事になるだろうから、何とか頑張ってみるか。
今回はちゃんと動いてるビデオの動画があまりなくて残念だが、たまにはこういう事もあるさ。

パンク / ニュー・ウェイブの世界で有名なドイトと言えばイアン・デューリーの1979年作2ndアルバムのタイトルがズバリ「Do It Yourself」だったのをまず思い出す。が、このアルバムにはそういうタイトルの曲は入ってなくて単にアルバムのタイトルなだけだった。
他に何かないかなと思って、真っ先に思い出したのがこれ、エコー&ザ・バニーメンの「Do It Clean」だ。
デビュー・アルバムから日本盤で堂々とリリースされていて、順風満帆にファンを増やしていった恵まれたスタートだったバニーズ(このバンドを80年代的に呼ぶと略してエコバニだったけど、通ぶった呼び方ではバニーズと言っててROCKHURRAHも周りもみんなこう呼んでた)だけど、全英1位とかってわけでもないバンドだったから、さすがにシングルまでは出してくれてなかったね。

この曲はアルバムには未収録のシングル「The Puppet」のB面だったから、輸入盤屋が近くにない地域の人にとっては当時は聴くに聴けなかったに違いない。
その頃「リヴァプール物と言えばROCKHURRAH」というくらいに奇妙な収集癖で、誰も知らないようなバンドを漁ってたんだが、誰でも知ってる大物、例えばエコー&ザ・バニーメンなどは「いつでも買える」というような理由で素通りしていた事を思い出す。もっとマニアックな人を気取っていたような、若くてひねくれてたあの頃の自分が今思えば恥ずかしいよ。
こう書くと全然持ってないか聴いてないかのように思われてしまうが、人並み以上にこのバンドの音楽も知ってるし好きなのは間違いないよ。東京に来る前から聴いてたしね。
そして、いつでも買えると思ってたレコードがこんなにも早くいつの間にか身の回りから消えてゆくとは、その頃は想像もしなかった。いや、消えたのはレコードじゃなくてレコード屋と言うべきか。

1980年リリースの「Do It Clean」は彼らの初期の作品につながる力強い名曲だけど、襟や袖の部分が切れたTシャツがヒラヒラしてるところでのギター、気が散って仕方ないような気がするよ。そんな神経質じゃ大物にはなれないか。
そして途中で何か探す謎の動きもあって珍しいビデオなんだけど、探してたのは何とタバコだった。そう、写真でもよく見かけるけどヴォーカルのイアン・マカラック(当時の呼び方のまま。今は違う呼び方されてる)はステージでの喫煙率が高いんだよね。アシスタントがつけてくれて無事に吸えたみたいだが日本では禁止されそうだね。
そういうアクシデント(?)も含めてファンにはたまらない貴重な映像だね。
邦題は「ドイトをきれいに(大ウソ)」。

続いては日本盤が出ていたにも関わらず微妙に地味な位置にあったバンド、グロリア・マンディの「Do It」だ。
邦題は「忘れじのドイト(絶対ウソ)」。
この「俺たち◯◯シリーズ」はROCKHURRAHが捏造した勝手放題な邦題をつける時とつけ忘れる時があって、つけ忘れたまま記事をアップさせた後で忘れた事に気付くと悔しい。けど、わざわざその部分だけ修正して更新するのもバカに思えてね。この歳になってこんなバカな事を真剣に考えるのも情けないなあ。

さて、このグロリア・マンディは時代的にはパンクの真っ只中からニュー・ウェイブに向かう頃の1978年〜79年に活動してたバンド。日本でも「反逆の狼火」などというタイトルでアルバムが出てたけど、指紋みたいなジャケットに全く魅力を感じずにROCKHURRAHは素通りしてしまった。改めて思うがROCKHURRAHは何にでも素通りが多すぎの気がするよ。
後に東京に出て最初は東北沢に住むんだけど、その超貧乏時代にこのバンドの「Glory Of The World」というシングルをなぜか買ったのを覚えてる。まだ毎日通うレギュラーな仕事やバイトがなく、単発のスポット的な仕事しかしてないような時だったな。
当時の下北沢にはレコード屋も数軒あったのに、まだ土地勘がないもんだから確かレコファンの近くにあった「五番街」という店で買ったような記憶。
この店がレコード屋だったのか何の店だったのか覚えてないが安いサングラスを買って、下北にもメガネ屋はあるのに、どういうわけか新宿で度付きサングラスにして以降、ROCKHURRAHと言えば度付きサングラスというイメージでずっと現在に至ってるよ。ああ懐かしき80年代のシモキタ。
それにしてもこの頃の若きROCKHURRAHは意味不明の行動してるな。二回も電車に乗って(作る時と取りに行く時)何で新宿で度付きサングラスにしたのか?

で、シングル聴いた印象は何かちょっと地味な感じで粘着質のヴォーカルが絡みつく、パンクなのかニュー・ウェイブなのかポジパンの先駆けなのかグラムの残党なのか判断の付きかねるシロモノだったな。
このバンドはジャケットとかにバンドのヴィジュアルを載せないタイプだったようで、声だけ聴いてもどんなバンドなのか想像がつかない。後で1stアルバム聴いたらちゃんとカッコ良かったので、あの時に知ってりゃ良かったと少し後悔したよ。
ヴォーカルのエディとサンシャイン(女性メンバー)は後にエディ&サンシャインというちょっとオシャレなエレポップのデュオを始めて、フランスのパンク・バンド、スティンキー・トイズをどうしても思い出してしまう。
スティンキー・トイズもメンバーの男女二人でエリ&ジャクノというエレポップ・デュオを後にやっていて、イメージ的にもかなりかぶるんだけど、当時そう思った人は多いはず。
ちょっと派手なおばちゃん顔のサンシャインと不気味な髪型で病的なエディ。
いかにもフランス風イケメンのジャクノとキツそうな目つきが鋭いエリ。
均衡が取れてるのかどうか、その後別離があったのかどうかは全く調べてないけど、まあ仲良くやって(ドイト)下さいよ。何じゃ?このいいかげんなコメントは?

動画なしが続くが、次はポルトガル産ニュー・ウェイブのバンド、ストリート・キッズの「Let Me Do It」だ。
邦題は「別れのドイト(ウソ)」。
当ブログの別企画で「80年代世界一周 葡萄牙編」などと書いても良かったのだが、惜しげもなく今回使ってやれ(ドイト)。まあそこまで温存するほどのバンドでもないしね。

ジャケットの雰囲気からしてディスク・ユニオンの7インチ・セールとかで200円で売っててもおかしくない感じだし、そう書いてたらどこかで見た事あるような気がしてきた。
ん、書いてるのは2020年だけどROCKHURRAHが言ってるのは最も頻繁にレコード漁りをしていた80年代のどこかの中古盤屋で、という話だよ。
ジャケット右側の二人が区別つかないところに見覚えがあるな(いいかげん)。
このバンドについて詳細は全くわかってないんだけど、この曲が1980年のデビュー・シングルらしい。

今もやってるのかどうかは知らないがROCKHURRAHが子供の頃、福岡地方のCMで「ポルトガル人が長崎へ カステラ カステラ・・・」などという歌があったのを思い出す。大航海時代にスペインと覇権を争っていたポルトガルもいつのまにか一線を退いてしまい、何だかのどかな大国になってしまったものだ。
そんな国でもパンクやニュー・ウェイブはちゃんと浸透して、イギリスよりは一年遅れくらいでも自分たちで音楽を作ってムーブメントを起こしてゆこう、という心意気は良いね。これこそいち早く海外に目を向けたエンリケ航海王子(1394年 – 1460年)の気概を受け継ぐ精神。
うーん、何だか壮大な決意を持ったバンドだと誤解されそうだけど、曲も演奏も歌い方もイギリスのB級エレポップにありそうな雰囲気でポルトガルっぽさは皆無だな。
初期ニュー・ウェイブの香りがするものはいつもROCKHURRAHの評価は高いんだけど、これもまた1980年のポルトガルだと考えると斬新なものだったんだろうね。
ナンバーワンなどとジャケットにシール貼ってるから、どこかで大ヒットしたんだろうけど、その頃のポルトガルではどういう音楽が流行ってたのかは不明。リスボンは燃えていたんだろうか?

静止画のビデオだとやっぱり飽きてしまうから次はこいつを。
ファン・ボーイ・スリー with バナナラマの「It Aint What You Do It’s The Way That You Do It」だ、タイトル長いなー。邦題は「酒と涙と男と女とドイト(ウソでしかも字余り)」でこれまた長い。

1979年頃にイギリスで大ブームだったのが2トーン・スカと呼ばれるネオ・スカのバンド達だった。
60年代ジャマイカのスカがジャマイカの労働者と共にイギリスに渡ってきて、70年代のパンクやニュー・ウェイブと出会って程よくミックスされたのがネオ・スカ。まあネオ・ロカビリーとかネオ・モッズとかネオ・アコースティックとか何でもネオをつけたがってたような時代だったからね。
この辺については確かROCKHURRAHの過去のブログ記事でも同じような事書いてたはずだが、さてどこだったかな?
スペシャルズ、セレクター、マッドネス、ビート、バッド・マナーズなどなど、個性派の面々が独自の音楽を構築していったが、スカというジャンルだけにこだわったバンドよりも自由に何でも取り入れたものの方が個人的には面白かった。中でも見た目も音楽も一番好きだったのがスペシャルズだったよ。
そのスペシャルズのテリー・ホール、ネヴィル・ステープル、リンヴァル・ゴールディングの三人が脱退してそのまま仲良く結成したのがファン・ボーイ・スリーだ。ここにどういう経緯でか加わったのがまだ初期の頃のバナナラマだった。
元々パンクやニュー・ウェイブのミュージシャンとの交友関係が広かった女の子たちだから、素人だった頃から目立ってたんだろうな。バナナラマは誰でも知ってるようなヒット曲を何曲も出した、80年代ニュー・ウェイブの世界に燦然と輝くガールズ・グループだけど、個人的にはファン・ボーイ・スリーとやってたこの頃が一番良かったな。

この曲は元はジャズの名曲だったという事だけど、歌い出しのTain’t What You Do It’s the Way That You Do Itというフレーズは確かに往年のものと近い。が、アレンジの巧みさなのか再現力の乏しさなのかは不明だが、原曲とはイメージがかけ離れたカヴァーとなっていて、独自の路線になってるのはさすが。いかにも80年代初頭のファッションや男三人女三人の健全交際みたいなビデオもいいね。

最後はこれ。
パンク界きってのメロディ・メイカーだったバズコックスの「Do It」。うーむ、知らん・・・と思ったら、これは何と1993年の曲だった。邦題は「帰って来たドイト(ウソ)」で決まりだね。

ROCKHURRAHが好きだったのはもちろん70年代のバズコックスで、もっと限定して言うならば後にマガジンを結成するハワード・ディヴォートがいた頃が一番。「Boredom」や「Breakdown」を初めて聴いた時の衝撃はピストルズを聴いた時以来のものだった。しかし数曲しか残さずディヴォートは去ってしまい、残されたギタリストのピート・シェリーが頑張って軟弱ヴォーカル術をあみ出した。
それ以降は、パンクを色々聴いてる人間ならば誰でも知ってるような曲を次々と量産し、後の時代にも多大な影響を与えたバンドとしてレジェンド級に名高いのは皆さん知っての通り。

一番輝いてた頃には観れなかったが、確か1990年前後くらいに来日したクアトロのライブは行ったんだよね。
みんな太ったおっさんになってたけど、さすがに百戦錬磨のライブ・バンドだから非常に密度の高い公演で、歳を取った事なんか忘れて熱狂したものだ。 この曲「Do It」はそれよりもさらに後って事になるな。
年齢を重ねて恰幅も当然良くなってるが、それを感じさせないほどの現役感に溢れてて、それは初心に帰ったような「Do It」というメッセージからも伺える。全体的に演奏の重量感が増して、ピート・シェリーがそこまでヘナチョコ・ヴォーカルじゃなくなっていた事が残念。
そのピート・シェリーは2018年に63歳で亡くなっているが、パンクをこれだけポップな表現で現代にまで残した功績は語り継がれてゆくに違いない。

以上、たかがドイト閉店くらいの事で連想が広がり、ここまでのブログ記事を書き上げた人間は未だかつていないだろう。これぞドイトが教えてくれたDIY精神だね。

ではまた、アテ マイス(ポルトガル語で「じゃあまたね」)