ふたりのイエスタデイ chapter03 / Pere Ubu

【米国産なのに絵柄は「ガロ」系なペル・ユビュのジャケット】

ROCKHURRAH WROTE:

ROCKHURRAHとSNAKEPIPEの二人が青春時代、あるいは少年少女時代に出会ったレコードや写真、絵画などを挙げて、それにまつわるエピソードを語るという郷愁あふれる企画がこの「ふたりのイエスタデイ」だ。

かつては結構たくさんのレコードを集めていて仕事が休みの時はレコード屋巡りの日々だったROCKHURRAHだから、今週買ったレコードをロクにじっくり聴きもせずまた来週には新しいレコードを求めたりしてたな。
そういう時期に買ったレコードと少ない所持金の中から工面してやっと買ったレコードじゃどうしても「思い出」という点で違いが出るのは当たり前。
「自分にとっての名盤かどうか」という点と思い出は必ずしもリンクしてないって事だね。どうしようもないクズ音楽でも思い出たっぷりのモノもあるだろうし。
だからというワケじゃないが、たぶんこの企画では

  • 福岡にいた頃(真摯に音楽を欲していた時期)
  • 東京に出てきたばかりの頃(貧乏だったけど店が多くて買う対象のレコードがたくさんあった時期)

このふたつの時期の思い出が色濃く出るだろうと予想する。
ROCKHURRAHの原点だからね。

小学生から20過ぎくらいまで住んでたのが北九州の小倉というところだった。当時の北九州市の人口100万人というから、地方都市としてはまあまあの規模だったのかな?
しかし子供の頃はそこまで関係なかったけど、音楽に目覚めてパンクやニュー・ウェイブの世界に染まった頃は、自分を取り巻く文化の低さにいつも不満を抱えていたな。
具体的に言えばパンクやニュー・ウェイブのマイナーな輸入盤は当時の小倉ではなかなか買えなかったし、パンクな服装が買える洋服屋とかもなかったとか、その程度の底の浅い不満なんだけど。
どこにいてもネット通販出来る今とはずいぶん事情が違う。

そういうわけで当時の小倉の音楽好きな若者はわざわざ福岡の天神まで出かけて行ってレコードを買っていた。・・・かどうかは全然知らないが少なくともROCKHURRAHの選択肢はそれしかなかった。
誰もが知ってるワケではないだろうが、福岡は音楽的文化の高さでは西日本でも有数の土地。数多くの有名バンドを産んだ土壌は当然ながら質の高いリスナーも育んだ、というメッカなのだった。

小倉から博多まで電車で行くとさらに天神まで乗り換えなきゃいけないし座れない可能性もある。そこでもっぱらROCKHURRAHが使っていたのが西鉄の高速バスだった。小倉駅前から天神バスセンターまで直通だから快適、楽ちんなわけだが、これだとレコード代プラス数千円の出費になるから随分無駄な小旅行となる。それでもよく通ったなあ。
電車で行ってもそこまで大幅に運賃は変わらなかったはずだが。

この天神行きは高校生くらいから東京に出るまでの数年間、コンスタントに続いていたが、ほとんどは一人で出かけた孤独の思い出ばかりだ。
そこまで出費してでもついてきてくれる友達もなかったし、レコード屋巡りするだけで必ず一日仕事になるハードな旅だったのだ。

この当時の輸入レコードには航空便と船便という大まかな違いがあって、ROCKHURRAHが求める旬のヨーロッパ輸入盤はもっぱら航空便だった。これがたぶん3300円くらいのものだった。随分昔のレコードならば船便でもいいんだろうけど、当時は最先端の音楽が聴きたかったから高くても無理して買ってたよ。
せっかく天神まで来たからには最低3枚くらいはレコードも買うし、そんなこんなで一回行って15000円くらいは必ず使ってたはず。我ながらすごい情熱だったね。

福岡で目当てとするレコード屋は主に二軒、これは大昔のブログ「昔の名前で出ています、か?」という記事でも書いたけど九州朝日放送の電波塔の下に位置していたレコード・プラントKBCというレコード屋が第一の目的の場所(第二の目的場所は今回の話とは違うのでまた別の機会に語ろう)。
少し後ではタワーレコードKBCという名前に変わったように記憶するが、いわゆるあのタワレコとは少し違う系列だったはず。そもそもあの時代にはもしかしたらまだ日本にはタワレコ来てなかったんじゃなかろうか。
タワレコなどと店名を書くと大半の人が誤解するに違いないが、扱っているものもいわゆるタワレコとは全然違った独自路線のマニアックなモノ。今でも覚えてるがレコード屋のコーナーで「マニエリスム(美術の形式のひとつ)」などというジャンル分けされた店はこのKBCしか知らない。意味はよくわかってなかったけどすごいなKBC。
タワーレコードKBCはその後、ROCKHURRAHが東京で暮らしていた間に引っ越しして天神のど真ん中でTRACKSと店名を変えて営業していた模様。このTRACKSがさらに大型店舗にリニューアルした時に短い期間ではあったがROCKHURRAHも働いたという経験があり、個人的な思い出が色々と残っている。それはまた別の機会に・・・。

そんなに広い店舗ではなかったけどここは天神のニュー・ウェイブの最先端。KBCは天神の街外れにあるからちょっと歩くんだけど、新しい音楽に出会える期待でいっぱいの道のりだったよ。今ではレコード屋に入っても特に何も感慨はないけど、こんなに音楽にのめり込んでいた若くて青い自分だったなんて信じられない(笑)。
今は若くも青くもないけど、それでもROCKHURRAHは社交的な人間ではなく、店の店員とすぐ友達になるような人柄ではない。
この店でも毎回、入ったらひたすら黙々とレコードをじっくり眺め、買うものの候補を選んでゆくという手順だった。
その後、足繁く通うものだから気さくに話しかけてくれた人もいて、この方の導きによって手に入れたレコードもあった。当時は全く知らずにただの詳しい店員さん、くらいにしか思ってなかったが何と70年代に知られたロック・バンド、葡萄畑の元メンバーだった人という事をずっと後で知った。それはまた別の回で語る事にしよう・・・。
ん?別の機会で語ろうというフレーズが今回は三回も出てきて、ネタを小出しにする気満々だな(笑)。

ROCKHURRAHがレコードを買う基準はこの当時ではジャケット、レーベル、プロデューサー、曲名、メンバーの名前などが主な項目だった。レコード屋で開封してまで中を見る客は滅多にいないと思うが、上記のような情報がジャケット裏に全て書いてるレコードばかりじゃない。その時はイチかバチか、もうジャケットの印象のみで買うしかないわけだ。ジョイ・ディヴィジョンに代表されるファクトリー・レコードなどはジャケットは美しいがこういう情報が表側にほとんどないタイプだったな。

少ない情報から自分の好きな何かとの関連性を見つけ出す、いわばレコード買いもミステリーにおける推理と同じようなものなんだよね。
もしかしたらROCKHURRAHより前に百人くらいは同じような事を言ったような気はするが、ありきたりな名言かな?
知ってるバンドの持ってない一枚を選ぶのは簡単だけど、何となく気になるジャケットがあって「このバンドは一体どういう音を出すんだろう?」と思いながら色々な推理をして買う。そして家に帰ってドキドキしながらレコードを聴き、それがまさしく求めていた音だった時の快感。これがレコード先物買いの醍醐味なのだ。不思議と完全に裏切られた、というのは少ないからROCKHURRAHの嗅覚も推理力も鋭かったに違いない。

ここでやっと一番上の写真のジャケットが登場する。
工場地帯が背景でおそらく工場勤務の工員(?)がバレエ・シューズを履いて踊っているという誠に奇っ怪なイラストが描かれている。当時の感性からしても格好良いとは全然思えないんだが、一瞬で人目を引くインパクトがあったのは確か。
同じようなモチーフで機械の中で踊るプリマドンナ、というDAFの1stアルバムもあるが、構想はおそらくこっちの方が先だと思う。
このKBCはカウンターの隣の壁が面出しスペースとなっていて、そのディスプレイを見るのも毎回楽しみの一つだったんだが、たぶん一度はここに飾られてあったはず。上に書いたレコードの情報という点ではこのレコードは割と豊富で、ジャケットの表裏にはバンド名、アルバムタイトル、プロデューサー、メンバー名、曲名、レコーディング・スタジオ、そして活動の拠点とする場所までもが明記されていて親切きわまりない。
しかしそのどこを読んでもROCKHURRAHにはこのバンドが一体どういう音楽をやるのか推理出来なかった。まだパンクやニュー・ウェイブを聴き始めたばかりの頃だからオハイオ州クリーブランドのバンドに知り合いなどいるはずもない。荒々しい筆文字だったからきっとパンク系だと思ったんじゃなかろうか。踊っているジャケットだからきっと躍動感のある音楽だと思ったんじゃなかろうか。

このバンドの名前はペル・ユビュというんだが、最初は読めるはずもなく心の中ではペレ・ウブだと思っていた。今でこそこのバンドの事もある程度は知ってるからわかる事もその時は当然ながら予備知識なしだったのだ。これがペル・ユビュとのファースト・コンタクトだった。

19世紀末から20世紀初頭に活動した作家、アルフレッド・ジャリの代表作が「ユビュ王 / Ubu Roi(1896年)」という戯曲だった。王などとタイトルになってはいるがこれは国を乗っ取った偽王が主役の品のない不条理劇で、ジャリの死後に大きなムーブメントとなったシュルレアリスムに影響を与えた作品らしい。

この芸術運動の代表的な画家、マックス・エルンストの作品にもユビュ王を題材としたものがある。真ん中の写真のとんがりコーンみたいなのがそうだ。
ここまで書いて大半の人にはわかる通り、ペル・ユビュというバンド名の元ネタがこのジャリの戯曲というわけだ。ユビュ親父とでも訳すのかな。タイトルはユビュ王だが登場人物はユビュ親父なんだよね。関係ないけどヘンリー・カウにも「Viva Pa Ubu」なんて曲があったな。しかしフランスやヨーロッパでならまだわかるが遠く離れたアメリカのクリーブランドでこんな名前のバンドが登場するのは意外という気がする。上の3つの画像を見比べても単にデブ体型が似ているというくらいしか共通点は見い出せないが。

ペル・ユビュは1970年代半ばにマイナーな活動をしていたロケット・フロム・ザ・トゥームズというバンドを母体として1976年頃にデビューした。このバンドはペル・ユビュだけではなくアメリカの有名なパンク・バンド、デッド・ボーイズの母体でもあるんだけど、世界のアングラ・ロックが集結したような音楽を目指したデヴィッド・トーマス(右の画像の人)とストゥージズやMC5のようなラウドな音楽の集大成のようなギタリスト、ピーター・ラフナーというまとまりようのない個性が混在した伝説的な存在。ずっと後に再評価されてレコードが再発されたりしたが、当時の日本じゃ知るのが難しいくらいにマイナーだったはず。
この辺は前にもこんな記事で書いてたな。
やがて一番マシにカッコいい部類のラフナーが抜けて(彼はその後に死亡)デヴィッド・トーマス好みのアヴァンギャルドでアングラな路線にピッタリの人材が揃い、ペル・ユビュとしてスタートする。
その彼らのデビュー・アルバムがこの「The Modern Dance」という珍妙なジャケットの作品だ。

針を落とすと片側から聴こえてくる飛行機のエンジン音みたいな「キーン」という耳障りな音。そして片側からはゆったりしたベースライン。そのどちらもかき消すヒステリックなギターの音から徐々に一体化してくるイントロのカッコ良さは衝撃的だった。そして始まる歌は・・・ん?演奏と合ってるのかどうか不明の奇妙な甲高い声。
近所の駅やバスの中で精神的にいってしまってるような輩を見かけるが、そういう奴らが言う独り言や叫びなどとデヴィッド・トーマスの歌声は紙一重という気がする。
この独特の変な声じゃなかったら並みのガレージ・パンクな名曲なんだろうけど、全てを台無しにするくらいのインパクトのある歌声、そしてデブの存在感があったからこそ、このバンドがカルトな人気を誇ったんだろうな。

通常のロック的な意味でカッコ良いのはアルバム中数曲のみ。あとは不安を掻き立てるようなサックスやノイズ、演劇がかった構成の曲などが展開してゆく。
アルバムのタイトル曲「The Modern Dance」も「ユビュ王」の冒頭の一言「Merde!(くそったれ!)」というフレーズがリフレインする名曲。舞台の客席のざわめきのような音が楽曲と見事にコラージュされていて、その当時としては斬新な構成にかなり影響を受けたものだ。
何回聴いても難解、というほど理解不能な音楽ではないがそれまでに聴いてきたどの音楽とも違う奇妙な明るいグロテスクに満ち溢れた音楽。まだ少年だったROCKHURRAHにとって聴きやすい音楽ではなかったが、この後で傾倒してゆくオルタナティブ(当時はオルタネイティブとみんな言っていたな)やノイズ・ミュージック、アヴァンギャルドな音楽への入り口だったのは確か。そういう音楽に目を向ける最初のキッカケがROCKHURRAHにとってはペル・ユビュだったというわけだ。

上記の曲「Non-Alignment Pact」に影響を受けたミュージシャンも多いようで、元ティアドロップ・エクスプローズのジュリアン・コープやアンダートーンズの残党によるザット・ペトロール・エモーションもこの曲をカヴァーしていた。また、初期の代表曲である「Final Solution」も元バウハウスのピーター・マーフィーがカヴァーしていたな。80年代初期はまだペル・ユビュ再評価のきざしもなく、原曲を入手するのも難しかったはずなんだが、ペル・ユビュよりももっと成功したミュージシャンによってひっそりとリスペクトされてたというわけだね。

彼らの初期アルバムの中で最も聴きやすいのがたぶんこの1stだと思うけど、3rdアルバム「New Picnic Time」あたりになるとさらにフリーキーさを増して、通常のロックにおけるカッコいい曲が皆無となってゆく。ROCKHURRAHが知っているペル・ユビュは80年代前半までで、その後はよく知らないし初期のメンバーもいなくなったらしい。後の時代の曲は随分ポップで温和な印象を受けるが、この辺にはあまり興味をそそられるものはないなあ。

1stアルバムを買った頃はまだ実家に住んでて兄の部屋をレコード置き場にしていた。ステレオはそこにしかなかったのだ。夜にカフェ・バー(笑)で働いていた兄が不在の間はずっとそこに居座っていて何時間も音楽を聴き録音したり、ギターを弾いていたものだ。
耳は肥えたがギターはちっともうまくならなかった。
その後東京に出たばかりの頃も働いてない時間はずっとそうしていた。今にして思えば密度の高い音楽の時間だったな。

人の個人的な思い出とかが他の人にとって興味あるかどうかは全然不明だが、今まであまりブログで自分を語る事がなかったから、たまにはこういう趣向もいいかなと思っている。
「この話はまた別の機会で」 などというフレーズも多かったから、人が嫌がってても無理やりシリーズを続けないとね。

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