ふたりのイエスタデイ chapter04 / 花見2014

【2014年の桜。SNAKEPIPE撮影】

SNAKEPIPE WROTE:

毎年の恒例行事の1つがお花見である。
パンクだ、ロックだ、ミリタリーだ、と言いながらもこういう習慣を持つROCKHURRAH RECORDS、意外と風情を大切にしてるんだよね。(笑)
そして毎年どこにお花見に行こうか、弁当は何にしようか、などとルックスには似つかわしくない人並みの悩みを持っている。
ROCKHURRAHとSNAKEPIPEを知る人は、きっと驚くだろうね!

昨年のお花見は本当に寒かった、という印象しか残っていない。
ROCKHURRAHとSNAKEPIPEは、完全防備の冬支度で臨んだことを思い出す。
確か2人共、N3Bを着用し革パンを穿いていたっけ。
とてもゆっくりと桜を愛でる余裕はなくて、弁当を食べた後そそくさと逃げるように帰宅してしまった。
本当はその後に予定を立てていたけれど、あまりの寒さにギブアップしたんだよね。(笑)
とても辛い花見だったなあ。

その記憶が残っていたため、今年は近場の晴れたできるだけ気温の高い日が希望だったけれど、休みの関係で昨日になってしまった。
春は天気が不安定でやっぱりまだ寒いんだよね。
あんまり大げさにみえないようにしながらも実はたくさん着込んだので、寒さ対策は万全!
手軽に食べられる弁当を用意して、いざ出発だ。(笑)

SNAKEPIPEは、まるで山ガールのようなアウトドア系のファッション。
えっ?もうガールって年齢じゃない?(笑)
じゃあ最近は流行りものに「女」と付けるようなので、「山女」でどう?
ちなみに読み方は「やまおんな」じゃなくて「やまじょ」だよ! (笑)
そしてROCKHURRAHは、というと…。
今からライブ行くの?というほど、キメキメのファッション!(笑)
カッコ良いのは嬉しいけど、もしかしたらその服装で靴脱いで、青いビニールシートに座るんだよねー。
ビニールシートには似合わないだろう?(笑)
SNAKEPIPEは個人の意思を尊重するので、ビニールシートのビの字も言わなかった。
ところがROCKHURRAHからは
「その格好にしたんだ?もっとお洒落すれば良いのに」
と言われたSNAKEPIPE。
ガーン!ビニールシートには「山女」が妥当だよー!
そんなライブ系と山女が桜の咲く公園へと向かったのである。

今年は先週の月曜、火曜あたりの気温や天気が最も花見に適していたようだったね。
SNAKEPIPEは火曜日、勤務先近くの公園で昼休み中に桜を鑑賞。
この日は上着が要らないほどのポカポカ陽気、花見客も大勢いた。
その後週末にかけて強風が吹いたり、雨が降ったりと悪天候が続いたため、やっぱり行かれるのは昨日くらいのものか。
多少風があって寒くても、この日を逃したらもうチャンスはないという最後の日だね。
同じように思う人が多かったのか、目指した公園にも場所取りのシートが並んでいた。
少し早い時間に着いたためか、花見客はそこまで多くなかったのは良かったね。

公園内を散歩しながら今年の桜を撮影。
見上げて撮ることが多いので、どの年の桜も似た写真になってしまう。
少しでも違いを感じようとして、加工してみたのが上の画像。
今回この写真を使ったブログにしたのは、「一枚のレコード、または一枚の写真とかを選び、それについての思い出を語ってゆく」趣旨の「ふたりのイエスタデイ」にピッタリだから。
しかも写真撮ったの昨日だし!(笑)

空の青と桜のピンクの鮮やかなコントラストを区切るように桜の枝がにゅっと伸びている構図で、畠山直哉の「渋谷川」を彷彿とさせる出来栄えだね!(笑)
そして「ふたりのイエスタデイ」らしく、少し過去っぽくするため縁をぼかしてみた。
時間をおいて観たらきっと感慨深くなること間違いなし。
季節の風物詩シリーズも続けていくつもりだよ!

ふたりのイエスタデイ chapter03 / Pere Ubu

【米国産なのに絵柄は「ガロ」系なペル・ユビュのジャケット】

ROCKHURRAH WROTE:

ROCKHURRAHとSNAKEPIPEの二人が青春時代、あるいは少年少女時代に出会ったレコードや写真、絵画などを挙げて、それにまつわるエピソードを語るという郷愁あふれる企画がこの「ふたりのイエスタデイ」だ。

かつては結構たくさんのレコードを集めていて仕事が休みの時はレコード屋巡りの日々だったROCKHURRAHだから、今週買ったレコードをロクにじっくり聴きもせずまた来週には新しいレコードを求めたりしてたな。
そういう時期に買ったレコードと少ない所持金の中から工面してやっと買ったレコードじゃどうしても「思い出」という点で違いが出るのは当たり前。
「自分にとっての名盤かどうか」という点と思い出は必ずしもリンクしてないって事だね。どうしようもないクズ音楽でも思い出たっぷりのモノもあるだろうし。
だからというワケじゃないが、たぶんこの企画では

  • 福岡にいた頃(真摯に音楽を欲していた時期)
  • 東京に出てきたばかりの頃(貧乏だったけど店が多くて買う対象のレコードがたくさんあった時期)

このふたつの時期の思い出が色濃く出るだろうと予想する。
ROCKHURRAHの原点だからね。

小学生から20過ぎくらいまで住んでたのが北九州の小倉というところだった。当時の北九州市の人口100万人というから、地方都市としてはまあまあの規模だったのかな?
しかし子供の頃はそこまで関係なかったけど、音楽に目覚めてパンクやニュー・ウェイブの世界に染まった頃は、自分を取り巻く文化の低さにいつも不満を抱えていたな。
具体的に言えばパンクやニュー・ウェイブのマイナーな輸入盤は当時の小倉ではなかなか買えなかったし、パンクな服装が買える洋服屋とかもなかったとか、その程度の底の浅い不満なんだけど。
どこにいてもネット通販出来る今とはずいぶん事情が違う。

そういうわけで当時の小倉の音楽好きな若者はわざわざ福岡の天神まで出かけて行ってレコードを買っていた。・・・かどうかは全然知らないが少なくともROCKHURRAHの選択肢はそれしかなかった。
誰もが知ってるワケではないだろうが、福岡は音楽的文化の高さでは西日本でも有数の土地。数多くの有名バンドを産んだ土壌は当然ながら質の高いリスナーも育んだ、というメッカなのだった。

小倉から博多まで電車で行くとさらに天神まで乗り換えなきゃいけないし座れない可能性もある。そこでもっぱらROCKHURRAHが使っていたのが西鉄の高速バスだった。小倉駅前から天神バスセンターまで直通だから快適、楽ちんなわけだが、これだとレコード代プラス数千円の出費になるから随分無駄な小旅行となる。それでもよく通ったなあ。
電車で行ってもそこまで大幅に運賃は変わらなかったはずだが。

この天神行きは高校生くらいから東京に出るまでの数年間、コンスタントに続いていたが、ほとんどは一人で出かけた孤独の思い出ばかりだ。
そこまで出費してでもついてきてくれる友達もなかったし、レコード屋巡りするだけで必ず一日仕事になるハードな旅だったのだ。

この当時の輸入レコードには航空便と船便という大まかな違いがあって、ROCKHURRAHが求める旬のヨーロッパ輸入盤はもっぱら航空便だった。これがたぶん3300円くらいのものだった。随分昔のレコードならば船便でもいいんだろうけど、当時は最先端の音楽が聴きたかったから高くても無理して買ってたよ。
せっかく天神まで来たからには最低3枚くらいはレコードも買うし、そんなこんなで一回行って15000円くらいは必ず使ってたはず。我ながらすごい情熱だったね。

福岡で目当てとするレコード屋は主に二軒、これは大昔のブログ「昔の名前で出ています、か?」という記事でも書いたけど九州朝日放送の電波塔の下に位置していたレコード・プラントKBCというレコード屋が第一の目的の場所(第二の目的場所は今回の話とは違うのでまた別の機会に語ろう)。
少し後ではタワーレコードKBCという名前に変わったように記憶するが、いわゆるあのタワレコとは少し違う系列だったはず。そもそもあの時代にはもしかしたらまだ日本にはタワレコ来てなかったんじゃなかろうか。
タワレコなどと店名を書くと大半の人が誤解するに違いないが、扱っているものもいわゆるタワレコとは全然違った独自路線のマニアックなモノ。今でも覚えてるがレコード屋のコーナーで「マニエリスム(美術の形式のひとつ)」などというジャンル分けされた店はこのKBCしか知らない。意味はよくわかってなかったけどすごいなKBC。
タワーレコードKBCはその後、ROCKHURRAHが東京で暮らしていた間に引っ越しして天神のど真ん中でTRACKSと店名を変えて営業していた模様。このTRACKSがさらに大型店舗にリニューアルした時に短い期間ではあったがROCKHURRAHも働いたという経験があり、個人的な思い出が色々と残っている。それはまた別の機会に・・・。

そんなに広い店舗ではなかったけどここは天神のニュー・ウェイブの最先端。KBCは天神の街外れにあるからちょっと歩くんだけど、新しい音楽に出会える期待でいっぱいの道のりだったよ。今ではレコード屋に入っても特に何も感慨はないけど、こんなに音楽にのめり込んでいた若くて青い自分だったなんて信じられない(笑)。
今は若くも青くもないけど、それでもROCKHURRAHは社交的な人間ではなく、店の店員とすぐ友達になるような人柄ではない。
この店でも毎回、入ったらひたすら黙々とレコードをじっくり眺め、買うものの候補を選んでゆくという手順だった。
その後、足繁く通うものだから気さくに話しかけてくれた人もいて、この方の導きによって手に入れたレコードもあった。当時は全く知らずにただの詳しい店員さん、くらいにしか思ってなかったが何と70年代に知られたロック・バンド、葡萄畑の元メンバーだった人という事をずっと後で知った。それはまた別の回で語る事にしよう・・・。
ん?別の機会で語ろうというフレーズが今回は三回も出てきて、ネタを小出しにする気満々だな(笑)。

ROCKHURRAHがレコードを買う基準はこの当時ではジャケット、レーベル、プロデューサー、曲名、メンバーの名前などが主な項目だった。レコード屋で開封してまで中を見る客は滅多にいないと思うが、上記のような情報がジャケット裏に全て書いてるレコードばかりじゃない。その時はイチかバチか、もうジャケットの印象のみで買うしかないわけだ。ジョイ・ディヴィジョンに代表されるファクトリー・レコードなどはジャケットは美しいがこういう情報が表側にほとんどないタイプだったな。

少ない情報から自分の好きな何かとの関連性を見つけ出す、いわばレコード買いもミステリーにおける推理と同じようなものなんだよね。
もしかしたらROCKHURRAHより前に百人くらいは同じような事を言ったような気はするが、ありきたりな名言かな?
知ってるバンドの持ってない一枚を選ぶのは簡単だけど、何となく気になるジャケットがあって「このバンドは一体どういう音を出すんだろう?」と思いながら色々な推理をして買う。そして家に帰ってドキドキしながらレコードを聴き、それがまさしく求めていた音だった時の快感。これがレコード先物買いの醍醐味なのだ。不思議と完全に裏切られた、というのは少ないからROCKHURRAHの嗅覚も推理力も鋭かったに違いない。

ここでやっと一番上の写真のジャケットが登場する。
工場地帯が背景でおそらく工場勤務の工員(?)がバレエ・シューズを履いて踊っているという誠に奇っ怪なイラストが描かれている。当時の感性からしても格好良いとは全然思えないんだが、一瞬で人目を引くインパクトがあったのは確か。
同じようなモチーフで機械の中で踊るプリマドンナ、というDAFの1stアルバムもあるが、構想はおそらくこっちの方が先だと思う。
このKBCはカウンターの隣の壁が面出しスペースとなっていて、そのディスプレイを見るのも毎回楽しみの一つだったんだが、たぶん一度はここに飾られてあったはず。上に書いたレコードの情報という点ではこのレコードは割と豊富で、ジャケットの表裏にはバンド名、アルバムタイトル、プロデューサー、メンバー名、曲名、レコーディング・スタジオ、そして活動の拠点とする場所までもが明記されていて親切きわまりない。
しかしそのどこを読んでもROCKHURRAHにはこのバンドが一体どういう音楽をやるのか推理出来なかった。まだパンクやニュー・ウェイブを聴き始めたばかりの頃だからオハイオ州クリーブランドのバンドに知り合いなどいるはずもない。荒々しい筆文字だったからきっとパンク系だと思ったんじゃなかろうか。踊っているジャケットだからきっと躍動感のある音楽だと思ったんじゃなかろうか。

このバンドの名前はペル・ユビュというんだが、最初は読めるはずもなく心の中ではペレ・ウブだと思っていた。今でこそこのバンドの事もある程度は知ってるからわかる事もその時は当然ながら予備知識なしだったのだ。これがペル・ユビュとのファースト・コンタクトだった。

19世紀末から20世紀初頭に活動した作家、アルフレッド・ジャリの代表作が「ユビュ王 / Ubu Roi(1896年)」という戯曲だった。王などとタイトルになってはいるがこれは国を乗っ取った偽王が主役の品のない不条理劇で、ジャリの死後に大きなムーブメントとなったシュルレアリスムに影響を与えた作品らしい。

この芸術運動の代表的な画家、マックス・エルンストの作品にもユビュ王を題材としたものがある。真ん中の写真のとんがりコーンみたいなのがそうだ。
ここまで書いて大半の人にはわかる通り、ペル・ユビュというバンド名の元ネタがこのジャリの戯曲というわけだ。ユビュ親父とでも訳すのかな。タイトルはユビュ王だが登場人物はユビュ親父なんだよね。関係ないけどヘンリー・カウにも「Viva Pa Ubu」なんて曲があったな。しかしフランスやヨーロッパでならまだわかるが遠く離れたアメリカのクリーブランドでこんな名前のバンドが登場するのは意外という気がする。上の3つの画像を見比べても単にデブ体型が似ているというくらいしか共通点は見い出せないが。

ペル・ユビュは1970年代半ばにマイナーな活動をしていたロケット・フロム・ザ・トゥームズというバンドを母体として1976年頃にデビューした。このバンドはペル・ユビュだけではなくアメリカの有名なパンク・バンド、デッド・ボーイズの母体でもあるんだけど、世界のアングラ・ロックが集結したような音楽を目指したデヴィッド・トーマス(右の画像の人)とストゥージズやMC5のようなラウドな音楽の集大成のようなギタリスト、ピーター・ラフナーというまとまりようのない個性が混在した伝説的な存在。ずっと後に再評価されてレコードが再発されたりしたが、当時の日本じゃ知るのが難しいくらいにマイナーだったはず。
この辺は前にもこんな記事で書いてたな。
やがて一番マシにカッコいい部類のラフナーが抜けて(彼はその後に死亡)デヴィッド・トーマス好みのアヴァンギャルドでアングラな路線にピッタリの人材が揃い、ペル・ユビュとしてスタートする。
その彼らのデビュー・アルバムがこの「The Modern Dance」という珍妙なジャケットの作品だ。

針を落とすと片側から聴こえてくる飛行機のエンジン音みたいな「キーン」という耳障りな音。そして片側からはゆったりしたベースライン。そのどちらもかき消すヒステリックなギターの音から徐々に一体化してくるイントロのカッコ良さは衝撃的だった。そして始まる歌は・・・ん?演奏と合ってるのかどうか不明の奇妙な甲高い声。
近所の駅やバスの中で精神的にいってしまってるような輩を見かけるが、そういう奴らが言う独り言や叫びなどとデヴィッド・トーマスの歌声は紙一重という気がする。
この独特の変な声じゃなかったら並みのガレージ・パンクな名曲なんだろうけど、全てを台無しにするくらいのインパクトのある歌声、そしてデブの存在感があったからこそ、このバンドがカルトな人気を誇ったんだろうな。

通常のロック的な意味でカッコ良いのはアルバム中数曲のみ。あとは不安を掻き立てるようなサックスやノイズ、演劇がかった構成の曲などが展開してゆく。
アルバムのタイトル曲「The Modern Dance」も「ユビュ王」の冒頭の一言「Merde!(くそったれ!)」というフレーズがリフレインする名曲。舞台の客席のざわめきのような音が楽曲と見事にコラージュされていて、その当時としては斬新な構成にかなり影響を受けたものだ。
何回聴いても難解、というほど理解不能な音楽ではないがそれまでに聴いてきたどの音楽とも違う奇妙な明るいグロテスクに満ち溢れた音楽。まだ少年だったROCKHURRAHにとって聴きやすい音楽ではなかったが、この後で傾倒してゆくオルタナティブ(当時はオルタネイティブとみんな言っていたな)やノイズ・ミュージック、アヴァンギャルドな音楽への入り口だったのは確か。そういう音楽に目を向ける最初のキッカケがROCKHURRAHにとってはペル・ユビュだったというわけだ。

上記の曲「Non-Alignment Pact」に影響を受けたミュージシャンも多いようで、元ティアドロップ・エクスプローズのジュリアン・コープやアンダートーンズの残党によるザット・ペトロール・エモーションもこの曲をカヴァーしていた。また、初期の代表曲である「Final Solution」も元バウハウスのピーター・マーフィーがカヴァーしていたな。80年代初期はまだペル・ユビュ再評価のきざしもなく、原曲を入手するのも難しかったはずなんだが、ペル・ユビュよりももっと成功したミュージシャンによってひっそりとリスペクトされてたというわけだね。

彼らの初期アルバムの中で最も聴きやすいのがたぶんこの1stだと思うけど、3rdアルバム「New Picnic Time」あたりになるとさらにフリーキーさを増して、通常のロックにおけるカッコいい曲が皆無となってゆく。ROCKHURRAHが知っているペル・ユビュは80年代前半までで、その後はよく知らないし初期のメンバーもいなくなったらしい。後の時代の曲は随分ポップで温和な印象を受けるが、この辺にはあまり興味をそそられるものはないなあ。

1stアルバムを買った頃はまだ実家に住んでて兄の部屋をレコード置き場にしていた。ステレオはそこにしかなかったのだ。夜にカフェ・バー(笑)で働いていた兄が不在の間はずっとそこに居座っていて何時間も音楽を聴き録音したり、ギターを弾いていたものだ。
耳は肥えたがギターはちっともうまくならなかった。
その後東京に出たばかりの頃も働いてない時間はずっとそうしていた。今にして思えば密度の高い音楽の時間だったな。

人の個人的な思い出とかが他の人にとって興味あるかどうかは全然不明だが、今まであまりブログで自分を語る事がなかったから、たまにはこういう趣向もいいかなと思っている。
「この話はまた別の機会で」 などというフレーズも多かったから、人が嫌がってても無理やりシリーズを続けないとね。

ふたりのイエスタデイ chapter02 / The Stalin

【今聴いても血沸き肉踊る一枚!】

SNAKEPIPE WROTE:

ROCKHURRAH WEBLOGで2014年から始まった新企画「ふたりのイエスタデイ」の第2弾はSNAKEPIPEがお送りしようか。
この企画は「一枚のレコード、または一枚の写真とかを選び、それについての思い出を語ってゆくという郷愁に満ち溢れた記事」になるという説明は第1弾でROCKHURRAHが書いてくれてるね!
あはは、実際一番上の画像で一目瞭然!
そうです、あのザ・スターリンの「STOP JAP」が今回選んだ一枚なんだよね!(笑)

ザ・スターリンを教えてくれたのは、学生時代の同級生Hだった。
夜間の外出などもってのほかだったSNAKEPIPEの自宅とは違い、友人H宅では外泊や外出に対して規則が設けられていなかったのかもしれない。
友人Hはバンドをやっていた関係から、年上の人達との付き合いがあり、ライブハウスに出かけていたようだった。
SNAKEPIPEが全く知らないことを経験している大人っぽい友人Hの話は、インターネットなどなかった時代には貴重な情報源だった。
どちらかというと無口なタイプだった友人Hがポツリと
「スターリンって知ってる?今度ライブ行くんだ」
と話してきた。
知らないよ、それなあに?と返答するSNAKEPIPEにカセットテープをくれた友人H。
これがSNAKEPIPEが初めて出会ったザ・スターリンであり、パンクだったのである。
時代的には当然ロンドンのオリジナルパンクのほうが先になるんだけど、SNAKEPIPEはザ・スターリンからだったんだよね。

そのカセットテープは文字通り擦り切れるまで何度も聴いたものだ。
思春期というお年頃、反抗期も続いているし、文学や芸術に敏感になっていたせいもあるだろう。
ザ・スターリンの歌詞、遠藤ミチロウの書く詞の世界や煽情的なミチロウの声は、その時代のSNAKEPIPEの心情にピッタリと一致してしまったようだ。
自分が何故この世に存在しているのか、存在意義の確かめ方を知りたいのにどうしたら良いのか分からない。
毎日イライラして、文学に答えを求めていたSNAKEPIPE。
なんて真面目な女子学生だったんでしょ!(笑)
そのイライラした感情をミチロウが言い表してくれていると感じたんだろうね。
バイトだと嘘をついたのか忘れたけど、何かしらの言い訳を考えて初めてザ・スターリンのライブに行ったのはそれから間もなくのことだった。
記憶に間違いがなければ新宿だったはず。
演奏を聴くどころではない、もみくちゃの状態になったこと、観客がみんなミチロウを指さすように人差し指を上げて熱狂していたことだけを覚えている。
ライブって大変なんだなあと思ったっけ。(笑)
ザ・スターリンを知ったのが遅かったせいで、次に行ったライブがザ・スターリンの大映撮影所での解散ライブだった。
撮影所だもんね、照明がすごくキレイだったなあ!
調べてみたら1985年の2月だって!
ぎゃー!29年前だよー!怖いー!(笑)

それからの数年間もずっとザ・スターリンを聴き続けていたSNAKEPIPEは、本当にどっぷりとミチロウの世界に浸っていたようだ。
当時はまだ学生だったSNAKEPIPE。
期末試験などで解答を早く書き終えてしまったけれど、時間までは着席していなければいけない余った時間に、テスト用紙の裏側に、「世界の終焉について」などと書き、その理由としてザ・スターリンの歌詞に加えて自分の意見などを書き綴ったりして時間潰しをしていた。

世界の果てまで俺を連れてってくれ
つぶれていってもいいんだ
失うものは何もない

これはザ・スターリンのメジャー・デビュー・アルバム「STOP JAP」に収録されている「STOP GIRL」の歌詞である。
世界の果てと聞くと、周りに何もなく、当然人もいない、遠くに地平線が見える風景を想像する。

人がいない、荒涼とした場所。
だだっ広くて、ずっと先のほうまで見通せる、
歩いても歩いても変化のない風景。
人がいた気配はあるけれども、全く姿を見かけない。
SNAKEPIPEにはそんな寂しい土地への憧れがある。

以前「SNAKEPIPE MUSEUM #5 Stephen Shore」に書いていた文章であるが、まさに「STOP GIRL」の世界観と一致していることに気付く。
実は今までずっとSNAKEPIPEの原風景のように感じていた寂しい風景がどこから来ているのか疑問に思っていたけれど、なんとそれはザ・スターリンの影響だったんだね!(笑)

数日後その答案用紙が採点され、先生から手渡された時
「ああ、あなただったのね」
と顔をマジマジ見ながら言うではないか。
一体何を言ってるのか謎のまま席に着き、採点結果を確認してから用紙を裏向きで机に置くと…。
なんとSNAKEPIPEが書いた「世界なんて滅んでしまえば良い」ことに関する理由についての採点がされていたのである!
理由1と理由3は矛盾している、などと赤が入れてある。
ぎゃーっ!SNAKEPIPEのイタズラに付き合ってくれる先生がいたなんて!
そこでやっと「あなただったのね」の意味が解り、赤面してしまった。
自分が何に興味があり何を考えているのか、すっかりその先生にバレてしまったからね。(笑)
それでもそんなSNAKEPIPEを叱るわけではなく、一緒に楽しんでくれた先生に感謝したし、その先生のことは今でも忘れていない。
遊び心のある面白い先生に出会えることはなかなかない経験だからね!

自立し、引っ越しを繰り返しているうちに、コレクションしていたレコードは全て手放してしまった。
当然のようにザ・スターリンのレコードも。
ある時やっぱり聴きたくなって、CDを買った。
手にした時に「違う」と違和感を持った。
テクノだったらCDでも良いんだけど、パンクはレコードで聴くものという気がするんだよね。(笑)
レコードサイズ以上に大きな存在だったザ・スターリンが、なんだか小さくなってしまったようで少し悲しかった。
サイズの違和感や、レコード特有の、曲が始まる前のプチプチした音がないことはもう仕方ない。
音源として聴くことができるだけで良しとしよう。

ザ・スターリン解散後にも遠藤ミチロウは音楽活動を続けている。
ミチロウのHPには「遠藤ミチロウ還暦記念ライブDVD完成」なんて文章も載っていて、ついに60歳を超えていること、そして今でも現役でライブを行っていることも知る。
SNAKEPIPEは、ザ・スターリン以降のミチロウについては「実物観たよ!80年代ライブ特集」に書いたP.I.Lのライブ後に見かけただけで、ミチロウ本人のライブに参戦したこともない。
それでもやっぱり応援しているし、ずっと頑張ってもらいたいと思っている。
ザ・スターリンは 今でも、SNAKEPIPEの核となる存在だからね!

 

ふたりのイエスタデイ chapter01 / Steve Harley & Cockney Rebel

【この水玉娘について書くのかと思いきや?

ROCKHURRAH WROTE:

新春だから新しい企画でも始めてみようということでSNAKEPIPEと考えをまとめていたのが昨年暮れの話。
こんな感じのシリーズ記事があったら書きやすいんじゃないか? などとテーマだけは決まったけど、シリーズのタイトルがなかなか思いつかなかったから苦労したよ。それでようやく考えたのがひねりも何もないパクリのタイトル。ああ恥ずかしい。

この新シリーズ記事のコンセプトはシンプルで明解だ。
ROCKHURRAHとSNAKEPIPEが一枚のレコード、または一枚の写真とかを選び、それについての思い出を語ってゆくという郷愁に満ち溢れた記事になる予定の企画。この二人の事だから当然、最も愛している輝いた時代、1980年代のものを中心にそういうものが発掘されるとは思うけど、どんな展開になるのかはまだ未定だな。
で、そういう内容の記事だからタイトルが「ふたりのイエスタデイ」というわけだ。「80年代はイエスタデイじゃないよ」などという声がどこからか聞こえてきたけど、たぶん気のせいだろう。

さて、このタイトル「ふたりのイエスタデイ」の一曲だけが有名な大ヒットとなったのがスコットランド(グラスゴー)出身の女性二人デュオ、ストロベリー・スウィッチブレイドだ。
80年代のニュー・ウェイブをリアルタイムで聴いてた人だったら水玉模様の衣装に派手な濃いメイクの二人の姿が瞬時に思い出されるはず。色んな音楽雑誌の表紙を飾ったりもしたし、原宿や下北あたりでそういうファッションの真似っ子女子を目撃したって人も多かろう。Wikipedeiaなどで読むとゴスロリとかのファッションの元祖みたいに書かれているが、彼女たちの音楽の方は全然違っていてゴシック要素はない。
個人的にはこの時代にあまりメジャーなニュー・ウェイブを聴いてなかったROCKHURRAHでさえ一応曲は知ってるくらいだけど、音楽的には特にピンと来るものがなかったから一枚も持ってなかったな。日本にも水玉消防団なんてのがいたけど、これまたピンと来ない。考えてみたら水玉の服を一枚も持ってないし、もしかして水玉嫌い疑惑?

メンバーの片割れが後にコイルのメンバーと結婚したようで、サイキックTVとかその周辺のインダストリアル・ミュージック系統でも知名度は高いらしい。
なぜかインダストリアル界(そんな言葉あるのか?)は理解するのが難しい音楽性とは裏腹に美女の取り巻きが多いと勝手な印象を持ってるんだが、今日話す内容とは全く関係ないので、その辺は省略。

ここまで読んでこのままストロベリー・スウィッチブレイドの話が続くと思ったら大間違いで、何と驚いた事にこれはただの前フリに過ぎないのだ。このタイトルでストロベリー・スウィッチブレイドの事書いたら当たり前すぎるからね。ひと捻りくらいはさせてよ。

この企画の一回目で書きたいのは何か?と考えてる時にふと思い出したのが上のレコードについて。スティーブ・ハーリィ&コックニー・レベルの4枚目のアルバム「Timeless Flight / 時間を超えた男」だ。
もちろん前フリで書いたストロベリー・スウィッチブレイドとはなーんも関係ない、もっと大昔のバンド。

過去にこのブログでも何回かは(ちょこっと)書いた事はあったけど、グラム・ロックが大流行していたのが1970年代初頭のイギリス。
T-REXやデヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージックにゲイリー・グリッターなどなど、きらびやかな男たちがヒット・チャートに極彩色の音楽を送り込んでいた(我ながら陳腐な表現で申し訳ない)。

このコックニー・レベルもそういうグラム・ロックの範疇で語られる事が多いバンドなんだが、デビューした時期が少し遅く、2ndアルバム「Psychomodo / さかしま」の頃がグラム・ロック終焉の頃と一致してるんだよね。
最終的には6枚のアルバムを出して解散するバンドだが、グラム・ロックで語られるのは最初の2枚だけ。だからコックニー・レベル=グラム・ロックのバンドではなくて、それ以外の時期の方が長いというわけ。
音楽的にも見た目もギンギラのグラム・ロック的な要素はなく、初期はヴァイオリンとキーボードが目立つポップなプログレッシブ・ロックといった雰囲気で、そこになぜかスティーブ・ハーリィのフォークっぽい字余りソングが無理やりミックスされた、そして全体の空気はやっぱりグラム・ロックという風変わりな音楽だった。詩の世界も独特のヒネクレ度合いで素晴らしい。訳詞でしかわからないけどね。
普通の意味でのグラム・ロック好きが聴くとかなり物足りないかも知れないな。しかしこの当時の音楽シーンで言えばミクスチャー・ロックなどなかった時代。そんな時代に独自の個性で自分だけにしか出来ない音楽を作り上げたスティーブ・ハーリィは偉大なソングライターだと思うし、英国を代表するエモーショナルなヴォーカリストだと思う。

個人的には今でも愛聴している「Psychomodo / さかしま」はギターではなくヴァイオリンによるロックンロールという斬新な音楽だったし、ヒットした「Sebastian / 悲しみのセバスチャン」や「Mr.Soft / ミスター・ソフト」などは大道芸やサーカスの要素が盛り込まれたノスタルジックな曲調、この辺をROCKHURRAHは高く評価している。

「さかしま」の途中で「デストロイ」とスティーブ・ハーリィが歌っているのがセックス・ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・U.K.」の元ネタになったとかそういう逸話もずっと後に知った話だが、ハーリィのコックニー訛りの乱暴な歌い方もパンク・ロックの元祖と言えなくはないな。

スティーブ・ハーリィはいくつかのヒットを飛ばしアルバムも絶賛されるが、早くからワンマン気質の男だったようで、初期コックニー・レベルのメンバーとは折り合いが悪かった。2ndアルバム「さかしま」の成功の後でメンバーはほとんど入れ替えとなって、それから後は音楽性をガラリと変えてしまう。妖しく退廃的なグラム・ロック、様式美にこだわったプログレッシブ・ロックの要素を排して彼が次にやったのは、意外な事に普通のポップなブリティッシュ・ロックだった。

3rdアルバム「The Best Years Of Our Life / 悦楽の日々」に収録された「Make Me Smile / やさしくスマイル」は全英1位を獲得した彼らの最大のヒット曲だが、何てことない明るいポップスの歌詞が過去に自分を裏切ったコックニー・レベルの元メンバーたちへの痛烈な皮肉と呪詛、というから敵に回すと恐ろしい。

そしてようやくこのアルバム「Timeless Flight / 時間を超えた男」に辿り着いた。1976年のこの作品は「やさしくスマイル」 が大ヒットした後としては全体に地味な印象があるし、ジャケットも目立たず当り障りのない女の下着色。あ、ベージュ色と言うのか?
実はこのアルバムこそROCKHURRAHが聴いたコックニー・レベルの最初の一枚という思い出がある。
このアルバムからのキャッチーなヒット曲はないんだが、大好きな曲「Red Is A Mean, Mean Color / 紅は残酷」「Everything Changes / 全てのものは神聖なりき」「Black Or White」などは聴きまくったもんだ。

ROCKHURRAHは福岡県の出身なんだが小学校から20代前半までは北九州の小倉に住んでいた。高校の時はバスの始発から終点近くという遠い場所にある戸畑まで通っていたが、ここは特に全国的に知られてるものはないし、読んでくれてる大半の人は「知らん」というくらいの土地だったな。ROCKHURRAHでさえ高校になってから初めて戸畑区に足を踏み入れたほど。
音楽が盛んだった博多と比べると小倉も戸畑もずいぶんと遅れてて、パンクもニュー・ウェイブも語れる音楽友達はいなかった。だから高校3年間でROCKHURRAHがそういう音楽を好きだと見抜いた人間もほとんどいなかったなあ。皆無ではなくて一人だけ音楽をわかる奴はいたけど、全然友達でもなくて会話もほとんどなかった。
高校は一応男女共学だったがROCKHURRAHが共学だったのは2年の時だけ。それ以外は男子クラスだったから何か殺伐とした毎日だった。
その男、I倉(略称)は3年の時だけ同じクラスだったが、バンドをやってるとか言うくせに小汚くて冴えないずんぐりむっくり。言うことが変わってるくせに面白くはない奴で、どちらかというと孤立したタイプだった。遠足のバスで「君が代」を歌ったりして変人扱いされてたな。
どういったきっかけでかは覚えてないが体育の授業で走ってる時にそのI倉と隣同士になって、急に音楽の話になった。
当時、ROCKHURRAHが聴いてたのがビーバップ・デラックスというバンドで、このバンドの解説(山田道成)に名前が出てきてたのがコックニー・レベルだった。
確かにビーバップ・デラックスもコックニー・レベルも同じ東芝EMIだったしグラム出身で典型的なグラムとは違う雰囲気、そして日本ではそこまで有名ではないという共通点があったから引き合いに出したんだろうが、情報がほとんどない時代に得たほんの少しの情報で、コックニー・レベルという聴いたことないバンドの名前が呪文のように頭の中を駆け巡っていたものだ。
大好きなバンドの解説に名前が登場したから、きっとそのバンドも好みに違いない、というような短絡思考ね。
当時の小倉には小さなレコード店しかなくて、当然ながら洋楽ロックもメジャーなものばかりしか置いてなかった。さんざん探したが見当たらなかったので、コックニー・レベルという好みそうなバンドに対する熱望がより一層高まっていた。
で、体育の時間の話に戻るんだが、I倉がどうやらプログレっぽいバンドでフルートやってるから聞いてみたのか、それとも向こうがたまたまその名前を出したのか、そこまでは覚えてない。
でもI倉から後日借りたレコードがコックニー・レベルのこのアルバムだった。なぜかおまけでヒカシューの「二十世紀の終わりに」なども付いてたのを思い出す。

彼との付き合いはこの時限りでその後、共通の音楽をきっかけに友人関係になるという事もなく、I倉が高校卒業後にどんな進路を取ったのかさえも覚えてないありさま。I倉に限らず高校時代の友達ともその後はバラバラになってしまい、その後会う事もほとんどなかったし同窓会も行った事がない。
この頃のROCKHURRAHはずいぶん希薄な人間関係だったなあ。

前述したようにこのアルバムは彼らの中でも最も落ち着いた作品、高校生のガキにはすぐに理解出来るようなものじゃない。しかし中学生の頃にはすでにELPやリック・ウェイクマン(イエスのキーボード)、キング・クリムゾンなどなど、コックニー・レベルよりは難解だと思える音楽を聴いてたので退屈とは思わなかった。何回か聴くうちにじっくり良さがわかってきたのだ。この時の縁がなかったら彼らに出会ってなかったかも知れないな。

数年経ってROCKHURRAHは単身上京して東北沢のアパート暮らしから東京での生活を始めた。 最初は貧乏だったがそのうち再びレコードを買い漁るようになり見る見る増えてゆくレコード棚。
コックニー・レベルのほとんどのアルバムも買い揃えたんだが、ずっと後になったある時ふと気づいた。
「しまった、I倉にこのアルバム返してない!」
彼らのアルバムはボロボロになった今でも後生大事に持ってるんだが、この「時間を超えた男」もI倉から借りたままのを持っている。
こんなエピソードは誰にでもあるんだろうし特別面白い話でもないな。
今ではたぶん普通のお父さんになってしまったに違いないI倉、君との付き合いはほとんどないに等しいけど、ROCKHURRAHは今でも君の顔も声も覚えているし、まだあの頃の音楽に関わって生きてるよ。
こんな自分こそ時間を超えた男なんじゃないだろうか?
何じゃこの三流ラジオ番組のナレーションのようなまとめは?