ニッチ用美術館 第7回

【夏っぽく暑苦しいタイトルバックにしてみました。鬱陶しいよう。】

ROCKHURRAH WROTE:

ここしばらくブログ執筆者(大げさ)としては全然登場しなかったROCKHURRAHだよ。
特に忙しかったわけでも病気だったわけでもなく、SNAKEPIPEがブログを書いてる横でただぼんやりしてただけ・・・うーん、相変わらず書いてて情けないな。

そう言えば連休前、ROCKHURRAHとSNAKEPIPEは二人して同じ会場、同じ時間で予約出来たのでコロナ・ワクチン接種に行ってきたよ。
区がやってる役所仕事だと思って、どうせ待たされたり不快になる事が多いと予想していたが、ヘタな病院よりもずっとシステマティックに手順が進み感心した。
看護師もスタッフも毎日数多くこなしてるからだろうが、熟練の極みでストレスがなかったのは良かった。
ちょっとでも様子が変だったらすぐに駆けつけて「大丈夫ですか?」と至れり尽くせり。
ここまで手厚い看護を受けた事ない人も多数だと思うから、感激する人もいるだろうな。

注射自体は痛くもなくあっという間に終わり、気分悪くなる事もなく「大したことなかったね」などと言いながら帰宅。
先にワクチンを打ったSNAKEPIPEの友人Mが色々な助言をしてくれたので予備知識はあったが、翌日から2日くらいは腕に筋肉痛のような痛みが出た。
よく言われるように腕が上がらないというほどはなかったけど、連休はどこも行かずダラダラ過ごして回復に努めたよ。
8月に2回目があるけど、その時の方が副反応が重いというから気をつけないとね。

久しぶりにブログを書く気にはなったけど何を書こうか迷ってたら「ニッチ用美術館」というSNAKEPIPEからのリクエストがあった。
そうだね、ROCKHURRAHが書いてるものの中では、アイデアとしては一番出来がいいシリーズ(自画自賛)だから。
では頑張って書いてみようか。

さて、毎回のように説明してる「ニッチ」とは生態的地位とかくぼみ、適所などの意味を持つけど、音楽とアートワークの隙間を埋めたいとROCKHURRAHが考え命名した企画というわけだ。
簡単に言えばレコード・ジャケットを展示して美術と音楽の両サイドから語ってゆくという素晴らしい企画なんだけど、キュレーターとしてのROCKHURRAHがB級なもので、いまだに人々を感動させられないでいるのが現状。

そして説明がしつこいがROCKHURRAH RECORDSは70年代のオリジナル・パンクと80年代ニュー・ウェイブしか語らないという、めったにない類いのレコード屋だから、展示物もその範疇にあるもの限定。
これ以外のものは語れないがよろしいか?(偉そう)

ROOM1 烏拉的米爾の美学

予備知識もなくこれを読める現代日本人はいないと思うが、烏拉的米爾と書いてウラジーミルと読むらしい。
ロシアの都市名を漢字表記してた時代にはこう書いていたんだろうけど、みんなスラスラ読めたのかな?
100%当て字だとはわかっていても、いちいちこういう字を当てはめようと考えた人がいたのがすごい事だと思うよ。こういうのを一日中考えるような仕事があったらしてみたいとさえ思える。

さて、その烏拉的米爾は人名としてもポピュラーでレーニンやプーチンもウラジーミルだそうだ。
人名の方は漢字表記するのかは不明だが。
ついでに、ROCKHURRAHはロシア人の名前をウラジーミルではなくてウラジミールと疑いもなく呼んでいたが、これはチェコ人とかの読み方で、ロシア的にはウラジーミルだという話。裏地見るではない。
知らなかったけど一ヶ月後には忘れていそうな豆知識だったな。

1910年くらいから1930年代頃まで盛んだったロシア・アヴァンギャルドという芸術運動、その中でも斜め直線や円形を大胆にあしらった構図や色使いの見事さで、ドイツのバウハウスと共にROCKHURRAHが大好きなジャンルなのがロシア構成主義だ。
これはROCKHURRAHもSNAKEPIPEも過去に何度も力説してるから、ROCKHURRAH RECORDSの基本ポリシーとなるデザインと言っても良い。

以前に銀座グラフィック・ギャラリーでアレクサンドル・ロトチェンコの企画展に感銘してからすでに10年近く。
それ以前からROCKHURRAHのスクリーンセーバーはずっとロシア構成主義のものを使っていたんだが、OSを新しいのに変えたら残念ながら使えなくなってしまった。
うーむ、それくらいずっと大好きなデザインだと言いたいだけで、数行も費やしてしまった。
ロシア構成主義の趣旨とは真逆のムダの多い文章だな。

ロトチェンコやリシツキーなどのポスターは有名だが、派手で斬新な構図を得意とするステンベルク兄弟も映画ポスターなどで活躍した素晴らしいアーティストだ。
色使いもとってもカッコいい。
そしてやっと烏拉的米爾につながったが、ウラジーミル(兄)とゲオルギー(弟)の二人でステンベルク兄弟だったというわけ。
兄弟でポスターを制作する分担は不明だが、初期の藤子不二雄みたいに合作してたのかね?

やっぱりパンクやニュー・ウェイブと一緒で、時代の波が一番きてる瞬間に人々が求めるものを提示して、華々しく活躍した者が寵児となる。
1920〜30年代のステンベルク兄弟がまさにそれだったんだろう。

弟の方は30年代にバイクで事故死、それ以降は目立った活動をしてないようだ。
ウラジーミルは弟の死を国家的な暗殺と信じ、後悔したまま(社会主義に反する芸術家弾圧が進んでいたソ連から亡命しなかったため)その後の人生を隠遁者のように送ったというような話。
本人がそう言ってるだけで真偽のほどは不明だけど、確かにそういう話はありそうだよね。

例えばメスキータもユダヤ人だったというだけでナチスによって殺されてしまったり、芸術でも何でも、やってる事が戦争や歪んだ社会体制によって踏みにじられる事に怒りを感じるよ。
今の時代でも何もかも自由な事なんてないし、多数のつまらん意見が個人を殺す事だっていくらでもある。

思わずシリアスになってしまったが、話を進めよう。
そんなステンベルク兄弟の作品をジャケットとして使用したのがザ・サウンドの1stアルバム「Jeopardy」だ。

このジャケットは1926年のソヴィエト無声映画「The Crime of Shirvanskaya」のポスターを使ったものだが、オリジナルのポスターはカラーだったのをなぜかモノクロのジャケットにしている。映画はもちろんモノクロなので別に違和感はないんだけど。
この映画、邦題が一切見当たらないので日本で公開された事もないんだろうけど、そして何者なのかは不明だが、シルヴァンスカヤなる人物が主役を務める映画が何本かあった模様。
シリーズ化されてたのかな?

ザ・サウンドは1980年代前半、ネオ・サイケの時代に活躍したバンドで、初期はエコー&ザ・バニーメンと同じコロヴァ・レーベルよりレコードを出していたな。
何か覚えがあるなと思ってたら去年の記事、「俺たちダーク村」で書いてたのを思い出した。

エイドリアン・ボーランドというちょっとぽっちゃり顔のソングライターが中心人物だったが、パンクの時代にはアウトサイダーズ、初期ニュー・ウェイブの時代にはセカンド・レイヤーというバンドで活躍していた。そのどちらでも才能を発揮していたが、このザ・サウンドが彼の集大成とも言える優れたバンドだった。

ちなみにネオ・サイケというジャンル名は、実際にやっている音楽とあまり一致しないという事で後の時代にはダーク・ウェイブなどと言われてたようだが、ROCKHURRAHはネオ・サイケで覚えた80年代世代だからこのまま書きすすめるよ。

1stアルバム「Jeopardy」のトップを飾る名曲がこの「I Can’t Escape Myself」だ。
ゆったりしたイントロからサビの盛り上がりが初期U2っぽいけど、こちらの方が先輩だね。
ボノはこの辺から影響を受けたのかもしれないな。
哀愁を帯びた良いメロディと、そんなに緻密にまとまってないラフな演奏が大器の片鱗を漂わせていたザ・サウンドだが、歌がいいだけで見た目やキャラクターとしての魅力には乏しかった。
バンド名もただのサウンドじゃ抽象的過ぎてイメージもまるで湧いてこないよな。

同ジャンルの有名バンド、ジョイ・ディヴィジョンやエコー&ザ・バニーメンのように国際的な人気になるほどの活躍はなかったが、たまにインディーズ・チャートに名前が出る程度。
ネオ・サイケという暗くて重苦しい音楽ではヒットする方が難しいので、それでもこのジャンルでは中堅どころとしてのネームバリューはあったというべきか。

ザ・サウンドの人気がどれほどだったかのかは正確に知る術はないが、具体的な例で言うなら80年代に下北沢のUK EDISON(南口降りた右側のビル2Fにあった)で2ndアルバムがしばらく面出しされて置いてたのを目撃、それで初めてこのバンドのレコードを買ったという思い出がある。
ステンベルク兄弟のジャケットの1stは後に中古盤で買ったんだよな、などと人によってはどうでもいい事をなぜか何十年も覚えてるROCKHURRAH。
ちょっと前の事をすぐに忘れるくせに変な部分にだけ異常な記憶力なんだよな。
しかも具体的な例が人気や知名度を知る材料に全くなってない。

ぽっちゃりの割には鋭く狷介な目つきのエイドリアン・ボーランドはその後、精神を病んで、ザ・サウンドの解散後10年以上経ってから電車に飛び込み自殺で生涯を閉じた。
バンド以降の音楽キャリアもちゃんとあったのに、プライベートとかについてはよくわからないからね。
まさに「I Can’t Escape Myself」そのものの人生だったな。

ROOM2 黯然の美学

この「ニッチ用美術館」という企画の最も大変な苦労はチャプターごとにつける○○の美学、ここになぜか難読熟語を当てはめるという形式を勝手にROCKHURRAHがやり始めたのが全ての元凶だよ。
最初の頃はそんなにこだわってなかったはずなのに、チャプター・タイトルをつけるのに大変時間がかかる。
まさにニッチもサッチもいかない状態。
漢字で書くと「二進も三進も」となるのも初めて知ったよ。

例えば上のジャケット見てROCKHURRAHがすぐに連想する言葉がアンニュイなんだけど、最近ではこの言葉も滅多に聞かないな。
物憂げとか倦怠とかを意味するフランス語だが、80年代的には「アンニュイな表情した彼女」などと誰でも使ってた言葉だろう。
で、アンニュイに相当する難しい言葉を様々な方面から調べてみるが、得意の当て字もなくROCKHURRAH本人も別に漢字博士なわけでなく、ここで大変な労力を使って何とかそれっぽいのを考えたのが黯然。
あんぜんだから暗然でもいいのにわざと難しい漢字にしただけ。

黯然とは「悲しみでくらく沈んでいるさま」だとあるが、うーん、そういう表情とはちょっと違うかもな。
というわけでさんざん考えた難読漢字がジャケットをうまく言い表してない失敗もあるということだ。
相変わらずだが言い訳長いな。

さて、こんな黯然なちょっと良さげなジャケットで80年代初頭に人気だったのがB-Movieというバンド。
このジャケットの曲「 Nowhere Girl 」や同時期の「Remembrance Day 」が割とヒットして、当時は聴きまくっていた人も多かったはず。
この有名なジャケットを撮ったのがピーター・アシュワースという写真家で、80年代ニュー・ウェイブの有名ジャケットを数々手掛けた人。ヴィサージやアダム&ジ・アンツ、ソフトセル、ユーリズミックス、アソシエイツなどなど、あれもこれも知ってるジャケットの多くはこの人の写真、というくらいに売れっ子だったようだ。

英国ノッティンガム近くのマンスフィールドという郊外出身のB-Movie、元々はパンク・バンドをやっていたそうだが1stシングルもヒットした曲に比べるとアグレッシブで暗めの初期ニュー・ウェイブという感じがなかなか素晴らしい。

代表曲「 Nowhere Girl 」は元々1980年にオリジナルを発表したが、これは普通のバンド編成に初期デペッシュ・モードのようなチープなシンセを取って付けただけのようなヴァージョン。
それがあまり売れなかったからなのか1982年に大々的にメジャーっぽいアレンジをほどこして、どこに出しても恥ずかしくない哀愁のエレポップ・サウンドに仕上げたのがようやくヒットしたという経緯がある。
上に展示したレコード・ジャケットも80年ヴァージョンよりは遥かに良くて、ソフトセルやザ・ザで一儲けしたサム・ビザール(レーベル)の本気が垣間見える名盤。
が、いいバンドだから売れるというわけでもなかったようで、2曲はヒットしたものの誰でも知ってるバンドにはなり得なかった。
何でかはわからないが1stアルバム発表が85年、レコード・デビューしてから5年もの歳月が流れた頃で、世間から忘れ去られてしまうほどの遅咲きバンドだったな。
レーベルもちょこちょこ替わってるし苦労したのかね。

ビデオで歌ってるのが売れ線を意識した方のヴァージョンだが、ヴォーカリストの動きも明らかにメジャー狙い。
Bムーヴィーというバンド名とは裏腹なんじゃない?
最初のヴァージョンももったり感はあるけど味わい深く、本当はこんな風に変身したくないバンドだったんじゃないかな?と想像するよ。
インディーズで2曲もヒットしないバンドが多い中、後世に残る名曲を残しただけでも良しとしなければ。

ROOM3 软盘の美学

馴染みのない漢字だがこれはある種の人々になら読めると思う。
中国語でフロッピーディスクの事をこう書くらしい。

フロッピーディスク自体を知らない人や見たことない人、そういう世代も多いだろうけど、IBMが発明した古いパソコンの記憶媒体だ。
大まかに言うと四角いプラスティック板のような3.5インチとさらに大きな5インチのサイズのものがあったな。ちょうど上の画像みたいなヤツね。
ROCKHURRAHが大昔に使ってたモニタ一体型のMac(iMacとかよりもっと昔の時代)にはまだ3.5インチフロッピーを差し込めるようになってたが、それでもフロッピーディスクはあまり使った記憶がない。記録出来る容量が少なすぎたからね。

5インチの方はそれより前に働いてたゲーム屋になぜか古いパソコンが置いてあり、どうでもいいような仕事に使ったり、どうでもいいようなゲームをしたり、要するに役に立ってなかった。
頻繁にディスクの入れ替えしないと先に進めなくて、ものすごく面倒な割には大したことない機械だと思っていたよ。
この時代はまだMacなど知らずMS-DOSだったしなあ。

そんな厄介な大型フロッピーディスクをヒントにデザインされたのがニュー・オーダー初期の大ヒット曲「Blue Monday」だ。

英国マンチェスターで70年代末に設立されたファクトリー・レコーズはニュー・ウェイブの歴史において最も重要なレーベルのひとつだと全世界的に認められているはず。
TV番組の司会者だったトニー・ウィルソンを中心に作られたインディーズ・レーベルだが、地元のジョイ・ディヴィジョンを獲得してから歴史が変わるほどの発展を遂げた。
ちょうどパンクからニュー・ウェイブへの変換期で、人々が何か従来とは違った音楽を求めていた頃に出てきたというタイミングの良さもあったな。
暗くて重苦しかったり、風変わりでカッコ良さとは無縁だったり、実験的でポップスとは無縁のものだったり、方向性は色々だけど、従来のロックだったらヒットしそうにない部類のバンドも次々と話題になってゆく、そんないい時代だったのが70年代末のイギリスだったわけだ。
ジョイ・ディヴィジョンはそこまで風変わりなバンドではなかったが、世界との隔絶や絶望、死など負のベクトルに向かってゆく歌詞とぴったりな演奏、暗いバンドは数多くあっても(その多くはジョイ・ディヴィジョン以降だが)、ここまで突き詰めたのは他にいないのではなかろうか?と思えた。
その絶望のクライマックスがイアン・カーティスの首つり自殺というショッキングな幕切れだったのは、今ここでROCKHURRAHが書かなくても周知の事実だろう。

ヴォーカリストが死んだからといって神格化とか伝説にするのは意味がないが、深くリスナーの心に残る傷跡となったジョイ・ディヴィジョンは実像以上に過大評価されまくって、現代に至るまで何十年も多くの人に影響を与え続けている。

今回はジョイ・ディヴィジョンを語るつもりで書いてないからここまでにするが、ショックで活動休止となっていたバンドはその後、残りの3人でニュー・オーダーとして活動を再開する事になった。

ファクトリー・レコーズはリリースしたレコード以外にも、例えば飼ってた猫にも規格番号をつけるといったユニークなレコード会社だったが、そのセールスに貢献したのは昔マーティン・ゼロという名前で活動していた名プロデューサー、マーティン・ハネット。
そしてレーベルとしてのトータルなデザインに関与していたピーター・サヴィルの存在だろう。

世界的に有名なジョイ・・ディヴィジョンの1stアルバムのレコード・ジャケットは、その道の人じゃない限りわからないような天文学の分野から持ってきたデザインだそうだ。
CP1919という初めて発見されたパルサーからのパルス信号だという。
そういうところからヒントを得るセンスもピーター・サヴィルの手腕なんだろう。

上の12インチ、超大型フロッピーディスクと呼ぶべきデザインもニュー・オーダーのスタジオに置いてあったものを、ピーター・サヴィルがデザイン的に感ずるものがあってこのジャケットに採用したという話がある。
横の方のカラーチャートみたいな配列にもちゃんと意味があるそうだが、わかる人でもわからん暗号みたいなもの。

実用的に作られただけのものが整然とした美しさになるというのはインダストリアルなデザインでも今や当たり前だが、1983年当時ではどうだったのか?
80年代半ばくらいにパソコンではなくワープロを買って「これはすごく画期的」などと喜んでたレベルのROCKHURRAHには確かに斬新だったろうな。

ニュー・オーダーの初期はジョイ・ディヴィジョンの曲調の延長線という路線だったが、演奏は同じでも不世出のヴォーカリスト、イアン・カーティスがいないという喪失感に満ちあふれていて、個人的にはあまり聴く事はなかったな。
しかし途中からシンセサイザーなどの電子楽器をうまく取り入れ、ジョイ・ディヴィジョンの時代にはなかったダンサブルなバンドへと方向転換したのが成功して、当時のイギリス物が好きな人だったら誰でも知ってる知名度を得た。

イアン・カーティスの死から3年経ってリリースされた「Blue Monday」はニュー・オーダーの人気を決定づけた名曲。
月曜日にイアンの自殺を知ったことからつけられたタイトルで、過去の呪縛を断ち切らなかったバンドの苦悩が逆に聴衆の心を掴み、大ヒットとなった。

ビデオはタイトルにそうあったので1985年に初来日した時のライブ映像なんだろうが、2分以上もあるイントロで用意は十分かと思いきや、何だ?この高音は?
ヴォーカルが1オクターブ、歌の音程を間違えてそのままいつもの音程に戻すというハプニング映像で、見ている方がコケてしまうくらいの情けなさ。

ジョイ・ディヴィジョン時代にはギタリストだったバーナード・サムナーが付け焼き刃のヴォーカルという事はわかるが、もう歌い始めて数年経つのにまだ拙いというのは、よほど大舞台に弱いタイプなんだろうか?

 ROOM4 俊邁の美学

今回はたまたま選んだものが暗いのばかりになってしまったから、最後くらいは明るく終わりにしたいと思って、急遽予定を変えて別のジャケットを展示したよ。

一般的にはあまり使われる事はないと思うが、ROCKHURRAHとかよりもずっと上の世代だったら普通に使ってたかも知れない表現だな。
俊邁と書いて「しゅんまい」と読み、才知がすぐれていることという意味だそうだ。

子供の時に知能テスト、IQテストというようなものを受けた記憶はあるが、本人には結果を知らせない意向だったのか、親が知ってても教えてくれなかったのか?どういうシステムなのかはよくわかってないが、自分のIQはわからないでいる。
ROCKHURRAHの時代と制度が変わっても全然おかしくないから、今の時代の子はそういうのはどうなってるんだろうか?

この類いのテスト問題自体がものすごく嫌いなタイプのものだったので、どっちにしても良くはないに違いない。
嫌いなタイプの問題で意外と高得点ってのも考えにくいからね。

今回選んだジャケットの主人公が俊邁だという噂だが、書き始めた後でレコード・ジャケットについて語る「ニッチ用美術館」と俊邁は全然関係ない事に気づいた。
うーん、ジャケット自体に感ずるものは特にないなあ。
首の部分が長くなるモンタージュ写真みたいなものだが、不気味に感じる事はあっても美的に素晴らしいとは思えないよ。
どうやらグレース・ジョーンズの髪型がスパッと角刈りみたいになった有名なジャケットのアートワークを手掛けたフランス人によるフォト・コラージュみたいだが、意図は不明。

さて、そんな俊邁を言いふらすタイプの才女がこの人、クリスティーナという女性シンガー。
IQ165、ハーヴァード大を卒業した天才というキャッチフレーズでデビューした彼女は、1978年に元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルがプロデュースしたシングルでデビュー。
このレコードがZEレコーズというレーベルの最初のリリースとなった。

ZEレコーズはニューヨークに拠点を置くインディーズ・レーベルで、2人の創始者、マイケル・ジルカとマイケル・エステバンの頭文字を取ってZEを名乗り、アメリカのニュー・ウェイブ推進に貢献した。
この二人の経歴もエリートとしか言いようのないもので、普通の若者が仲間の協力で拙くインディーズ・レーベルを立ち上げたというような貧乏エピソードとは無縁のものだった。
この辺がイギリスとアメリカの温度差だと感じてしまうよ。

そのZEは世界的に有名なメジャー・レーベル、アイランドの傘下だった事もあり、インディーズ・レーベルとしてはかなり有名になった部類だと思う。
ROCKHURRAHがよく読んでた音楽雑誌の裏表紙とかがZEの広告だったりして、何だかよくわからんが興味を持って買ったレコードもあったのを思い出す。

このレーベルは所属ミュージシャンの傾向も意味不明で、キッド・クレオール&ココナッツやWAS(NOT WAS)などの売れ線ファンク系を主力としながらもフランスのリジー・メルシエ・デクルーを売り込んだかと思えば、一方ではコントーションズやリディア・ランチ、スーサイドなどのアンダーグラウンドで活動していたバンドも精力的にリリースしていた。
偏ってると言えばそうだが、単にニューヨークやパリを拠点とした最先端っぽいのを無差別に集めてみましたといった雑多なもの。
だからROCKHURRAHはZEレコーズについてはレーベルとしての魅力はあまり感じないというのが正直な感想だが、人によってはこのレーベルを絶賛してるのもいるから、捉え方は色々なんだろう。

さて、そのZEレコーズの看板歌姫としてリジー・メルシエ・デクルーと共にレーベルが強力にプッシュしていたのが本作の主人公、クリスティーナだ。

頭の良さだけでなくお色気もあるコケティッシュなシンガーとして売り出したかったようで、下着姿や露出度の高いドレスなど、ちょっと後の時代にマドンナがやるような路線の先輩と言えるような位置だったな。
ただし写真写りがいい時と悪い時の差が大きく、もしかしたら写りのいい奇跡の一枚を選んでジャケットにしたのかも、と思ってしまう。
デビュー当時が20代前半だったとしたら顔が大人び過ぎてる、平たく言えばもっと歳に見えるのもマイナスだったかな。
たまにクランプスのポイズン・アイビーっぽく見える時があって、それはそれでコケティッシュと言うべきか・・・。
インディーズのシンガーであまりプロモーション・ビデオも残ってないようなので、容姿がいまいちわからないよ。

「Ticket To The Tropics」は1984年に出た2ndアルバム収録でシングルにもなった曲。
今回展示した首長のジャケットであるこの2ndアルバム、邦題が「胸騒ぎのクリスティーナ」という恥ずかしいものだが、ちょうど同時期に少年マガジンで連載していた「胸騒ぎの放課後」を思い出す。
いつもそこだけ飛ばして読んでたなあ、という薄情なコメントしか出てこないが、それもまたいい思い出(ウソ)。

このアルバムを最後にクリスティーナは表舞台から姿を消すが、ZEレコードの首脳の片割れマイケル・ジルカと結婚。
逆に言えばジルカ氏が所属アーティストに手を出したという事が発端となって、ZEレコードに亀裂が生じ、そのうちレーベルとしての活動は休止したようだ。よくある喧嘩別れってヤツか。

その当時のニュー・ウェイブのエッセンスのひとつだった、割と無機的な声で60年代ポップスっぽい感じを歌うという手法は成功していて、本作も個人的にはなかなか良いと思える。
「ノー・ウェイブ(NYで流行ったノイジーでアヴァンギャルドな音楽)・シンガー」などと形容されることもあるが、アルバムを聴いてる限りはそんな感じはしない。
ROCKHURRAHの耳がおかしいのか?
その一年前くらいにイギリスで流行ったコンパクト・オーガニゼーション(マリ・ウィルソンで有名なレーベル)のやっていた事をアメリカっぽく、よりゴージャスに展開したという雰囲気はするね。え?全然違う?

結局、マイケル・ジルカとも離婚してその後にクリスティーナが何をやってたのかはよく知らないが2020年3月、つまり去年に新型コロナウィルスによって亡くなっている。
まだ流行り始めの頃で治療などが何なのかわからないうちに、だと思うと全然他人事には思えなくて恐ろしくなるよ。
うーむ、最後は明るく終わりたいと思って曲調だけで選んだのに残念な結果に終わってしまったな。

とにかく夏が大嫌いなROCKHURRAH RECORDSは毎年毎年言い続けてるけど、早く涼しくなって湿度も下がって欲しいと願うのみ。
ついでにコロナもいいかげんに国を挙げて、国民が一致して拡大を防ぐように誰もが努力して欲しいよ。

それではまた、ラーマス ブン(ルーマニア語で「さらば」)。

時に忘れられた人々【33】情熱パフォーマンス編5

20210314 top

【何だかよくわからぬ情熱に溢れたファイター達】

ROCKHURRAH WROTE:

元旦以来全くブログを書いてなかったROCKHURRAHだが、実に久々の登場となるよ。
病気だったわけでもなく何か別の事に奔走してたわけでもないけど、3ヶ月もぼんやりしてたわけだ。
SNAKEPIPEがクリエイティブな事(ブログを書くのがそうらしい)してる間にお菓子を焼いたり(ウソ)家事をしたり、なんて家庭的な人なのだろう。

久々のブログで何を書こうかと思ったけど、今回はROCKHURRAHが長くしつこく続けてる「情熱パフォーマンス編」でいってみようか。初めて書いたのが2011年らしく、10年間でたった5回だけしか記事を書いてないけどね。

ROCKHURRAHが書くのはパンクや80年代のニュー・ウェイブに限ってなんだけど、ロックの誕生前から色々なジャンルの音楽で歌い手はいて、その人なりのパフォーマンスを演じてきたことと思う。

本人はごく自然に歌に込めた思いや情熱を表現してるつもりでも、ごくたまに、傍から見るとすごく変な動きにしか見えないものがある。
そういった一瞬を捉えて何だかそれなりのコメントをいいかげんに書いてゆく、というのがROCKHURRAHのいつものパターンなんだよ。
では早速見てみようか。

【道化る!】
Vertigo / Screamers

「おどける」という言葉はあっても日常的に「どうける」とはあまり言わない気がするが、そういう言葉もちゃんとあるらしい。
似たような言葉で「ふざける」というのもあるが、漢字で書くと「巫山戯る」と一気に難しくなって、とてもふざけては書けないなあ。

まずはLAパンクの中でも変わり種として名前が残っているバンド、スクリーマーズから。

1970年代半ばにはすでにシーンを確立していたニューヨーク・パンクの連中がいて、そこからの影響で70年代後半にロンドン・パンクが生まれたのはパンク好きだったら誰でも知ってるはず。
アメリカ各地でも当然パンクは伝染して独自の進化をするのも当たり前だけど、ニューヨーク以外の大都会でも続々とパンク・バンドが登場してシーンを形成していった。
ロサンゼルスも色々とバンドが登場して注目されていたが、ROCKHURRAHはイギリス物を漁るのに忙しくて、アメリカのパンクにはあまり関心を持たなかったという過去がある。
個人的にかろうじて知ってるのは後にニッターズ(Knitters)という本格的カントリー、ブルーグラスのバンドとなってファンを驚かせたXやヴォーカリストがジョン・レノン射殺の前日に自殺したジャームス(Germs)くらいか。
詳しい人だったらLAパンクだけで食っていける(何の商売かは不明)ほど豊富な人材を誇るジャンルだと思うよ。

そんな中で地元シーンでは有名、ただし世間ではほとんど知られてなかったのがこのスクリーマーズだ。
1977年から1981年頃まで活動していたロスのバンドなんだけど、何しろ活動中にまともなレコードは一枚も出してないので、例えば音楽雑誌でその名前を知った人でもリアルタイムで聴いた事ある人はほとんどいないという状況。
後に発掘音源みたいな形でリリースされて初めて知られる存在になったという。
YouTubeで手軽にビデオを見れる時代になるまでは「LAに行って観てきた」って人じゃない限り、どんなバンドなのかもわからなかった、都市伝説みたいなバンドだったに違いない。
ロクにレコード出してなかった割には動いてる映像はかなり多数残されていて、彼らの活動はある程度は知る事が出来る便利な世の中になったものよ。

このバンドが変わり種というのはギターもベースもなく、ドラムとキーボードのみでちょっと奇抜なパンクをやってるというバンド構成。
エマーソン、レイク&パーマーというギター無しのバンドもそれ以前にはあったから珍しいというほどのもんでもないけど、大体ギターが中心のパンク界では希少種には違いない。
ROCKHURRAHが勝手に似た印象のバンドとして思い出したのがイギリスのスピッツエナジーだ。
スピッツオイル、アスレティコ・スピッツ80などレコード出すたびに名前を変えるB級SFパンク・バンドなんだけど、初期では何とヴォーカルとエレキ・ギターのみでレコーディングしてた(ちゃんと売られてた)という、アマチュア・バンドにも劣る構成の変バンド。四畳半フォークならまだわかるけど、その言葉も現代では古語かもね。
スクリーマーズはそれに比べりゃずっとマトモにバンド形態なんだけど、途中で入るブレイクのような音の奇抜さがスピッツと似てると思った次第。

そんな彼らの情熱パフォーマンスはいかにもパンクといった顔立ちのヴォーカリストによる突然のコミカルな仕草が真骨頂。
情報がないから定かじゃないが、「昔ちょっと道化師をやってまして」とかそういうタイプだったのかね?
この曲だけでなくどこでもちょっとだけ奇妙な動きが入るのが絶妙で、思わず目が釘付けになってしまうよ。
派手に堂々とじゃなくて本人もちょっと恥ずかしいのか、小刻みで控えめなところがいいね。

【成り上がる!】
Holiday In Cambodia / Dead Kennedys

ロサンゼルスが出たから同じカリフォルニア州のサンフランシスコを代表するパンク・バンド、デッド・ケネディーズも挙げておこうか。
全米パンク界でもかなりな有名バンドでパンク好きだったら知らない人はいないくらいだろうね。
甘乃迪已死樂團として中国でも知られてる模様。何じゃそれ?
サンフランシスコ市長選にも出馬した事があるという上昇志向の強いジェイロ・ビアフラを中心としたバンドで、日本でも割とリアルタイムでレコードが出たから知名度も高いしファンも多かったな。
オルタナティヴ・テンタクルズというレーベルを立ち上げて数多くのパンク・バンドをリリースし、世に広めた功績は大きい。

ROCKHURRAHはあまり政治的なメッセージ性が好きじゃないのと独特のヴィヴラートした声が苦手なので、みんなが「デッケネ(通称)」と熱狂してる時も冷ややかに通過したけど、それでも「Holiday in Cambodia」や「Kill the Poor」「Nazi Punks Fuck Off」などは愛聴していたものだ。

その代表曲「Holiday in Cambodia」は何種類かのジャケットがある事で知られているシングルだが、ROCKHURRAHが持っているのは青と朱色みたいなヴァージョンだった。
単に空爆か何かのイラストだと思ってたら、調べてみると「バーニング・モンク・スリーブ」との事。よく見たら確かにモンク・イズ・バーニングだったよ(意味不明)。

1975年から79年までカンボジアの政権を握ったのがポル・ポト率いるクメール・ルージュ(ポル・ポト派)で、たったの4年間にカンボジア人口の4分の1の人が虐殺されたという恐ろしいまでの黒歴史。
そんなに大昔じゃなくてこんなに恐怖の政権があったのかと思うと、思い上がった人間の身勝手さに誰もが怒りを覚えるだろう。
たぶんその事についての強烈な批判が歌詞に込められていると勝手に想像したんだが、英語が苦手なROCKHURRAHにはよくはわからん。

ビデオは他のメンバーがクールに決めてるところに緑色のゴム手袋して明らかに挙動不審なビアフラ登場。怪人かよ!
この変な動きと顔芸でそんなシリアスな歌を歌うか?というふざけっぷりにこっちや後ろのメンバーが心配になるよ。
歌ってる時の表情がたまにE・YAZAWAに似てると思ったのはROCKHURRAHだけか?
やっぱりBIGになる人間には共通したものがあるのか。

【妨げる!】
Young Savage / Ultravox

昔から自己顕示欲が低くて、前に出る事が少なかったROCKHURRAH。
個人主義でリーダー的気質はたぶんないにも関わらず、周りに関羽とか張飛的な存在が大体いて支えてもらってたから、自分で思うよりリーダーになる場面も多かったな、と回想する。それが人徳ってもんか。
だからというわけじゃないが「妨げる」という行為が嫌いで、邪魔しない男としてずっと生きてきた。
最近は何するでも迷惑かける邪魔な人間が多くて困るよね。

続いてはヒステリックなおばちゃん顔で有名なジョン・フォックス率いる初期ウルトラヴォックス。
去年11月の記事で書いたばかりだが、よほど好きと思われても仕方ない頻度で書くな。

1970年代に出た3枚のアルバムでヴォーカルを担当し、80年代にソロとなってからは物静かなインテリといったイメージのジョン・フォックスだったが、最初の頃はかなりアグレッシブで危ない男だったようだ。

釘を打つようなリズムと乱暴な早口ヴォーカルはロンドン・パンクの代表的なスタイルと見事に一致してたし、もっと評価されて良かった時代にはちょっと不遇な扱いのバンドだったね。早すぎたニュー・ウェイブと言うべきか。
元ビーバップ・デラックスのビル・ネルソンやチューブウェイ・アーミーのゲイリー・ニューマンと共に未来派パンクの先鋒としてシンセサイザーの効果的な使い方を(ロック的に)世に知らしめた、その功績は大きい。

ブライアン・イーノ、スティーブ・リリーホワイト、コニー・プランクという最高級プロデューサーの力を得て作った3枚のアルバムはどれも先進性に溢れた傑作だったな。パンクの名盤として挙げる人も多いはず。
にも関わらず商業的には成功せず、ジョン・フォックスが脱退した後でリッチ・キッズやヴィサージで活動していたミッジ・ユーロが加入した途端に、メキメキ人気バンドになっていったという経緯がある。
SNAKEPIPEもジョン・フォックス在籍時のウルトラヴォックスは知らなかったという。完全に別物バンドだもんね。

後に初期ウルトラヴォックスのマネしたようなチューブウェイ・アーミーが「先進的」と言われバカ売れしたり、先進的な事を始めたから話題になって売れるわけじゃないという現実をイヤというほど味わったのが本家ジョン・フォックスだろうね。

ウルトラヴォックスは確かな演奏力を持ったバンドでレディング・フェスティバルの出演経験(シャム69やジャムも出てた豪華な顔ぶれ)もあるが、ドイツのTV番組で悪ノリし過ぎた映像がこれ。
どうせ歌も演奏も口パクなのはわかっちゃいるが、ジョン・フォックスのハメを外しすぎな態度にメンバーから苦情続出間違いなしだよ。
演奏してるのも構わず無理やり肩を組みコーラスさせたり完全に寄りかかったり、狭いステージなのに暴れまくってもう大迷惑な男。これがちゃんとしたライブだったら音はメチャクチャになるだろうし「あっち行けよー!」と言いたくなる。

ジョン・フォックスがなぜ脱退したのかは知らないが、周りの事を考えないワンマンっぽい雰囲気があるし(勝手な想像)、叩き上げのミュージシャンっぽいメンバーとは合わなかったのかもね。
などと言うよりも上の映像みたいなふるまいをしてたら、そりゃ追い出されてもするわな(完全に想像)、と思ってしまうよ。
「クワイエット・マン」などと歌ってる割には何をするでも俺様中心、騒々しそう。

【開き直る!】
Aubade a Simbad / Jad Wio

次はフランス産、どぎついアングラ感満載のデュオ、Jad Wioだ。
カタカナ表記した日本のサイトがほとんどなく、正式にはよくわからないが、ROCKHURRAHは当時はジャド・ウィオと呼んでいたよ。ジャド・ヴィオとも書かれているな。

その昔、フランスのOrchestre Rougeというバンドに大変のめり込んでいて、それをきっかけにフランス産のネオサイケ、ポジパンなどのダークな音を探してレコード屋巡りをしていた時期があった。
いや、レコード屋巡りはそのフランス産に限らず、パンクの頃もサイコビリーに凝ってた頃も日課のように各地に出没してたよ。
当時、世田谷代田に住んでたが、色んなレコード屋をはしごして必死で目指すレコードを入手していたもんだ。
新宿のヴィニール、渋谷のZESTやCSV、明大前のモダーン・ミュージック、下北沢のエジソン、高田馬場のオパスワンなどなど、足繁く通った店もあれば一回こっきりしか行かなかった店もある。安く掘り出し物を見つけたいからディスク・ユニオンやレコファンなどの中古屋などにも数日周期で通ってたな。

そんな中で知った数多くのバンドもあったけど、L’Invitation Au Suicideというフランスのレーベルが個人的にはお気に入りで、そこのレコードを見つけると優先的に買っていたもんだ。レ・プロヴィソワールやペルソナ・ノン・グラータなど質の高いバンドをリリースしてたからね。
Jad Wioもそこから出していたので知ったバンドだった。
バウハウスのピーター・マーフィーっぽいヴォーカルにダークな音作り、その当時のポジパンやゴシックと呼ばれる音楽の理想形に近かったが、メンバーのヴィジュアルも不明だったし「これ!」という個性、決め手がなかった。
だからその後、熱心に追いかける事もなくROCKHURRAH個人的にもダークの時代が終わりつつあった。

この二人組がレコードを出したのが84年くらいからで、ポジパン時代のピークをやや過ぎてなので日本ではそこまで話題にもならなかったもんね。どこの土地でも入手出来るわけじゃないフランス物だったからなおさらね。
うーん、Jad Wioの思い出ってほどの事もないくせに十数行も書いてしまったな。

そしてずっと後になってYouTubeで偶然に映像を見て仰天したのが上の姿。
こんな二人でやってたのか、まるでコミックバンドじゃん。
全盛期のラッキィ池田を思わせるようなクネクネの動きで、歌い踊る変態ヴォーカリストと楽器担当の自己陶酔感が満載のビデオでヴィジュアルとしてのインパクトは圧倒的。二人とも病気のような細さだね。
ここまでじゃないがROCKHURRAHもレコード屋通いしてた昔はやせ細っていたな。食うものも食わずレコードに費やしてたわけじゃないけど一生太らないと勝手に思ってたもんだ。が、今では・・・。

この二人は変でイビツな自分たちをちゃんと肯定するところから始まって、それでずっとやってきているのが偉いね。
普通だったらこの顔とスタイルに生まれてきて、こんなつながった眉毛描かないよな。

【供える!】
Tapetto Magico / The Wirtschaftswunder 

多くは生まれ育ちの環境によるもので個人の資質(?)や敬虔さとは関係なく、ROCKHURRAHは神仏とは縁のない暮らしをしてきた。父親が死ぬまでは家に仏壇もなかったし、物心ついてからじいちゃん、ばあちゃんと呼べる存在も身近にいなかったし。
だから何かを供えるという行為をした事もないし法事とも無縁の生活をしてたよ。

家が金田一耕助シリーズに出てくるような旧家だった、とか先祖代々住んできた家だったとか、そういう家庭に育った人ならばお供えくらいは日常的にしたことあるだろう。
宗教がもっとぐっと身近にある海外ではそんな罰当たりな子供はいなくて、誰でも先祖や神を敬う機会くらいはあるのだろう。

さて、最後に紹介する情熱パフォーマンスはこれだ。
ドイツ産ニュー・ウェイブであるノイエ・ドイッチェ・ヴェレの中でもパイオニア的存在であるのも関わらず、かなりイビツなバンドゆえに、メインストリームからやや外れてしまった感があるのがこのWirtschaftswunderだ。
読めん!編」 でも書いた通りなかなか読めんバンド名だが、ヴィルツシャフツヴンダーとROCKHURRAHは呼んでいたな。
日本語に訳せば「第二次大戦後の(ドイツの)急速な経済復興の奇跡」という意味らしいが、これがひとつの単語だと言うのが驚くべきドイツ語。

ヴィルツシャフツヴンダーはイタリア人とカナダ人とチェコスロバキア人とドイツ人による国際色豊かな4人組として1980年にデビューした。
ちょうど盛り上がっていたノイエ・ドイッチェ・ヴェレのブームに乗って人気バンドとなった・・・というわけにはいかなくて、大半のノイエ・ドイッチェ・ヴェレのバンドと同様、日本では一部の好事家以外には無視されるようなバンドだった。
ヴォーカルはいかにもイタリー系のマフィア顔だし、他のメンバーも誇れるような容姿をしてないというのに、古臭いポートレート風の顔写真ジャケットで買うのが恥ずかしかったり、1stシングルに至ってはひどいとしか言いようがないジャケットだったり、とにかくヴィジュアル戦略がまるでなってなかったな。

音楽の方はいかにもニュー・ウェイブ初期の実験的なもので、かなり奇抜で妙な躍動感と高揚感に溢れたすんごいもの。
これに比べると奇抜と言われてるらしい最初のスクリーマーズなんてかわいいものよ。
聴く人を選ぶがヘンなのを探していて見つけたならフェイバリットと叫ぶ人もいたはず。ニュー・ウェイブの盛んだった時代に多くの人に知られなかったのが残念なバンドだったよ。

このスタジオ・ライブのような映像もすごい迫力でROCKHURRAHの大好きなもの。
「Tapetto Magico」は1982年の2ndアルバムに収録されていた曲。
PILの「Flowers Of Romance」を思わせる中東風なのかアフリカのどこかの民族調なのかわからないが、とにかく名曲。

ヴォーカルも変だが左側のクラリネット男(キーボードもラッパもこなすマルチ・ミュージシャン)のテンションがすごい。どこかの部族で、獲ってきた獲物を神に捧げるかのような力のこもったアクション。顔もモロに戦士だよね。
目が釘付けになってやみつきになってしまうよ。どのビデオ見てもおっちょこちょいそうな小太りギタリストも本当にいい味出してるよ。素晴らしい。

以上、久しぶりのROCKHURRAHがお送りした80年代満載の記事、相変わらずのワンパターンで飽きられてしまうだろうか。
それではまた、ナ スフレダノウ(チェコ語で「さようなら」)。

2021年元旦

20210101

【もらって嬉しくはないかも、の不気味な年賀状】

ROCKHURRAH WROTE:

あけましておめでとうございます。

去年が最高の一年だったって言える人もあまりいないだろうけど、2020年は多くの人にとってとてもいやな年だったはず。
何でもかんでも「コロナの影響で・・・」だったもんね。
コロナ禍で生まれた最大の便利な言葉だったかも。
便乗商法という言葉はあるけど、便乗値上げや便乗解雇などなど、何でもかんでもコロナのせいにすれば諦めるだろう、という安易な考えがまかり通ったイヤな新しい日常だったね。
TVでもバカのように毎日の感染者数や重症者、死者の推移を言うだけで、統計として危機感は増すだろうけど、それを知ったからといってどうなるの?という思いがするよ。
もう少し有用な事を語れよバカ、と怒る人も多数だろうな。

我がROCKHURRAH RECORDSに関してもコロナの影響で色んな事があったけど、そんな事をグダグダ書いても仕方ないからやめておこう。2019年も「しんどかった」などと書いてたけど引き続きのパッとしない運勢だったな。

良かった事と言えば、2020年はROCKHURRAHもSNAKEPIPEも珍しく、くじ運がとても良くて素晴らしかったのが特筆すべきかな?人生でこれだけ当たり年というのも滅多に無い出来事。
ん?宝くじとか金に関する事じゃないからね。

個人的には2020年後半には久々にゆったりした生活が出来たので、本を読んだりじっくりと調べ物をしたり、いつもとは違う時間の過ごし方が出来た、それだけは良かった。
が、12月になると突然に忙しくなってしまい、何と大晦日まで仕事というスケジュール。
若い頃は販売系が多かったから正月も大晦日も昼も夜も関係ないよって生活してたけど、SNAKEPIPEと一緒になってからは初めての出来事だよ。そうじゃなくても年末って感じは全然しなかったけどね。

毎年恒例のROCKHURRAH年賀状だけど、シュルレアリスムにダダ、ロシア構成主義など自分の好きな路線をごっちゃにしたらこんなのが出来上がったよ。マヤコフスキー好きだったらわかって貰えるかな?え?全然わからん?

毎年恒例だった初詣も今年は行かないつもりだし、同じ境遇の人も多いとは思うがNetflixで巣ごもり寝正月と決め込んだよ。
さて、今日は何を観ようかな?

大して気の利いた事も書けなかったけど、これもまたコロナの影響で(ウソ)。

では今年もROCKHURRAH RECORDSをよろしくお願いします。

80年代世界一周 亜爾然丁編

【予想外に豊富だった80年代亜爾然丁ロッカーの面々】

ROCKHURRAH WROTE:

以前に南米の80年代パンク、ニューウェイブ特集をしようと思ったら、予想外に層が厚かったからブラジルのみしか出来なかった。
それで今度は残りの南米について書いてみようか。
南米の音楽事情について全然詳しいわけでもなく、人から見たら何で書きたいのかがわからないというくらいのシロモノになるのは間違いないが、大体いつも割といいかげんに書いてるブログなので細かい事は気にしないで。

一口に南米と言っても相当な国がひしめいてて、地理や歴史に詳しくない人は国名を全部言えないのではないかと思う。
ROCKUHURRAHもスリナムとかガイアナなどはこれまでの人生で一度も話題にした事ない国名だったよ。
ブラジル以外の南米主要国はほとんどがスペイン語圏だから、国によって音楽のニュアンスが大きく変わる事はないような気がするな。
どうせその国の80年代がどうだったか?なんて知りもしないから、テキトーな順番で矢継ぎ早に書いてゆこう。

まず今回はブラジル以外の南米の国では一番メジャーそうな国、領土も南米二位という大国アルゼンチンから。
漢字で書くとタイトルのように亜爾然丁となる。爾がルで丁がチンなんだね。

この国に対するROCKUHURRAHのイメージは貧困で(どの国でもそうなんだが)アルゼンチン・タンゴとかガウチョとかフォークランド紛争(古い)とか、その辺の月並みなものしか思い浮かばないよ。
去年観に行った「永遠に僕のもの」や結構ヒットした「人生スイッチ」もアルゼンチン映画だったな。
その両方のプロデューサーだったペドロ・アルモドバル監督作品の常連、セシリア・ロスもアルゼンチン人だし、スペインとアルゼンチンは結構密接に関係してるという印象を勝手に持ってるよ。
ブエノスアイレスは南米のパリと呼ばれてるそうだし、旅番組とかで見てもたぶん好きな感じの国だと思った。
この国の80年代がどうだったかなんて知らないが、前回特集したブラジルと同じく、意外とパンク、ニューウェイブも発達してたのかな。

アルゼンチンのパンクとして真っ先に名前が挙がる大御所がこのLos Violadoresだ。スペイン語で「違反者」を意味するバンド名だがカタカナ表記したサイトが見つけられず、イマイチ読み方がわかってない。
そのまま読んでヴィオラドレスなどと書いて検索したら舞踏会か結婚式で着るようなすごいドレスが出てきたからきっと違うんだろうな。

1981年にブエノスアイレスで結成した4人組で最初の頃は割とガラの悪い見た目だったが、人気が出た頃にはニューヨーク・ドールズとハノイ・ロックスとダムドが合わさったようなルックスになっていた模様。ヴォーカルのPil Trafaは確かに南米を感じさせないルックスでロックスターになるのもよくわかるよ。
途中で何度か活動休止期間もあったようだが、1983年から現在までコンスタントにレコードも出していて、本国ではたぶん最も成功したパンク・バンドなんだろう。

ビデオの曲は1985年に出た2ndアルバムに収録でシングルにもなった代表曲「Uno Dos Ultraviolento」。
勝手に直訳すれば「ワン、ツー、超暴力」で何だかよくわからないタイトルだが、 血気盛んなラテン民族には大好評だったに違いない。
ベートーベンの「歓喜の歌」をイントロに使ったポップでパンクな曲調は日本で言えばラフィンノーズの「聖者が街にやってくる」とか思い出してしまったが、ちょうど同じ年の曲なんだよね。
曲の構成とかサビのハモリとか妙にラフィンノーズっぽいノリを感じるけど、こっちの方が軽いな。
どっちも影響を受けたものは違うかも知れないけど、日本もアルゼンチンも発想は同じようなものだと確認出来て良かった良かった。

ビデオでは「時計じかけのオレンジ」を模したヴォーカリスト、この辺もパンクの世界では世界共通に影響を受けてるというのがわかるね。こりゃ確かに「ワン、ツー、超暴力」だわ。

似てると言えばもう一つ思い出していいかな。
ギタリストはこの手のバンドには珍しくギブソン・エクスプローラー(コピーモデルかも知れないが)という珍妙な形のギターを持ってて、高校の時に先輩から借りて持ち帰ったのを思い出したよ。
当時は誰が使ってたか思い出せないが(おそらくフュージョン系)B.C. リッチとかアレンビックとかあまり伝統なさそうなギターが流行ってたから、色んなギターを弾いてみたいという欲求が強かったんだろう。
何行も書いたくせに、見た目の割には弾きにくくはないという感想くらいしかない。
大体同じようなフォルムのギブソンのファイヤーバードはヴィンテージ感があってカッコいいのに、この違いは何だろう?

アルゼンチンと言えば忘れちゃならない、80年代で最も知られたバンドがこのSoda Stereoだろう。
Sodaは単体ではソーダなんだろうがなぜかこのバンドはソダ・ステレオと呼ばれているそだ。
いや、スペイン語でもソーダでいいだろうに、などとどうでもいい感想をまず持ってしまうが、1982年に結成された3人組。
1984年に出た1stアルバムは驚くほどたくさん南米各国で再発を含めリリースされまくってるが、南米以外ではアメリカで随分後になって出たくらい。どうやら南米だけで大人気のバンドらしい。
などと無責任に書いたがラテンアメリカで初めて100万枚を超えたバンドらしく、全世界(大半は南米だと思うが)で700万枚も売れたレジェンド級の活躍をしたらしい。ここまで書いて気付いたが訂正するくらいなら書き直せば良かった。

そのアルゼンチンの伝説、Soda Stereoは1982年にブエノスアイレスで結成、1997年に解散するまでコンスタントにレコードを出して大成功を収めたという。1枚のレコードにつき30〜50くらいの各国盤がリリースされてるようなので、それはものすごい人気だったんだろう。
パンク的な要素はあまりないけどロックとラテン、レゲエ、スカなどが実にうまくミックスされていて、この辺はずっと後の時代のマノ・ネグラあたりに通じる痛快なノリの良さ、勢いを感じる。

ビデオはアルバム・デビューより前の1983年の映像だが「Te Hacen Falta Vitaminas」(自動翻訳による勝手な邦題「あなたはビタミンが必要です」)はデビュー曲で1stアルバムにも収録されている、ヤンチャで元気のいい様子が伝わる名曲。
個人的にニュー・ウェイブに関しては後進国だと思っていた認識が大きな間違いだと反省したよ。

しかしヴォーカルのグスタボ・セラティは2010年(バンド解散後)にライブ後、脳卒中で4年間も昏睡状態となり2014年に55歳で死去している。
うーん、大成功したロックスターの死としてはやりきれないが、前回のブラジル編で書いた、国民的スターだったヘナート・フッソも30代だったな。
大スターであろうとなかろうと、何か自覚症状があった時は深酒とかのせいにせずに早めの検診を、としか言いようがないよ。

有名なバンドが続いた後で一気に情けなくなってしまうが、このTrixy y Los Maniáticosも1981年に結成したアルゼンチン・パンクの先駆者のようだ。はっきりは読めん、だがトリクシー&ロス・マニアティコスでいいのかな。
後にソロとなったトリクシー嬢(おばちゃんっぽいが)は最初に書いたLos Violadoresのバッキング・ヴォーカルなどもやってたみたいだから、その辺の縁でアルゼンチンのパンク・シーンが出てきたのかな。
何しろレコードのような音源も出してなくてずっと後にカセットが出たのみ、主要な曲はトリクシーのソロ曲とかぶってるし、とにかく情報がなさ過ぎて困ってしまうようなバンドだ。

なのにYouTubeにはTV出演の映像とか残ってるし何曲も聴けたりする。一体どうなってるんだ?
映像は悪いし上の2つのバンドと比べると明らかにクオリティは低いが、ラテンでも立派にロックンロールしてるぞという堂々とした姿勢が心を打つ(大げさ)。

レコード・リリースさえないインディーズ中のインディーズ・バンドが晴れてTV出演したという貴重な映像には違いない。
「ウチらはライブ・バンドやけんスタジオ盤なんか出さんっちゃ(なぜか突然方言)」などと言ったのかどうか、これこそがパンクの生き方なのかどうかは知らんが、そういうバンドを見つけるのこそが80年代世界一周の目指すところだよ。

長身でこの髪型やルックスは「フジヤマママ」で知られる女性ロッカー、パール・ハーバー(一時期クラッシュのポール・シムノンの奥さんだった)をちょっと思い出す。その辺を意識してるのかな?

で、また情報が少ないバンドその2、Alerta Rojaもアルゼンチンの最も初期パンク・バンド、Los Psicópatasが名前を変えたという3人組だ。
Los Psicópatasは1979年の結成で、その後Estado de Sitioと改名した後、三度目の正直でレコード・デビューした時にはAlerta Rojaになったらしい。全部読めん。日本語に訳すと「非常警報」というバンド名でいかにもだな。
一番上に書いたLos Violadoresよりも早い1982年にシングルを出し、83年と86年にアルバムも出してるようだがたぶん相当入手困難、忘れた頃の2013年にやっとこれまでの活動全曲入りのCDが出た。

そんな零細バンドなのになぜかちゃんとした映像が残ってて、これまた不思議の国アルゼンチン。
ビデオは1983年に出た1stアルバム収録の曲「Atrincherado(塹壕)」だ。
曲はLos Violadoresなどと比べるとラウドで荒々しく暗い雰囲気、あまり南米っぽくは感じないね。
このバンド、荒削りなパンクの1stも独特なダークさを展開した2ndもすごく良いので、中古盤屋でその全曲入りCD見つけたらぜひ買って欲しいくらいだよ。
ヴォーカルがちょっと垢抜けない(という言葉の方が垢抜けないが)しギターはベイ・シティ・ローラーズみたいなチェック・マフラーだし、見た目はともかく曲作りは相当のレベル、おそるべしアルゼンチン。

どこかの空き地みたいなところでビデオカメラさえあればタダで撮れるだろうけど、後ろの建物の壁に「BERLIN PUNX」と書いてあるように見えるからさらに意味不明。わざわざベルリンに撮りに行ったのか、ベルリンのパンクがアルゼンチンで落書きしたのか、どうでもいい事ばかり気になるよ。

割とストレートなノリのある音楽を好むのかは知らないが、アルゼンチンではイギリスの80年代のような暗い傾向のものはあまり見つからなかった。知識もないし探し方が悪かっただけかも知れないけどね。
ちょっといいなと思うと静止画だけのビデオで退屈だから不採用というのが多かったよ。
そんな中で無理矢理見つけたのがこれ、Los Pillosというバンド。

Pillosという言葉をGoogle翻訳してみたらラスカルズになって意味不明、日本語に翻訳してラスカルズって何だよ?
律儀に辞書で調べてみたらずる賢い奴、悪党、悪人、不良、ちんぴらなどなど、ラスカルズという語感でこんなの(写真)を思い浮かべてたのにガッカリだよ。
さて、そんなゴロツキどもは1984年にブエノスアイレスで結成、アルバム1枚だけ出して88年にはもう解散した短命のバンドだ。

長髪長身でダブルのライダース着て仁王立ち、という姿はラモーンズを意識してるのかはわからないけど、情感こめて歌う姿がちょっと気持ち悪い男。やってるのは全然違うタイプの内向的な線の細い音楽で、バンド名とのギャップを感じるよな。
しゃがんでて後に立つギタリストの、曲調に合ってるのか合ってないのかわからんグニャグニャしたフレーズだけが耳に残る。これだけが聴かせたかったかのようなプレイ。この全体的なアンバランス加減が理解されなかったんだろうかね。

見た目だけは欧米に負けてないぞ、というルックス重視だったのがVirusというバンド。
現在の状況を考えるとシャレにならないバンド名だが、80年代とかには何も考えず気軽に色んな名称にも使ってた言葉で、Discogsという音楽データベース・サイトで検索するとVirus (29)などと出てきて、ジャンルを問わず多くのバンドがVirusを名乗っていた事がわかる。このバンド名で29番目に登録されたというわけね。29どころかたぶんもっといっぱいあるに違いない。
韓国の女子ゴルファーで同姓同名が6人もいて、イ・ジョンウン6とか5とかいたのを思い出してしまったよ。

Virusは結成も1979年と早く、アルゼンチンのパンク・バンドが結成後にレコード・デビューするまで随分手間取ってるのを尻目に、1981年には早々とメジャーレーベルから1stアルバムを出してるやり手バンドでもある。
まあやってる音楽が違っててこちらは大衆受けのするポップなバンドで、TV出演映像とかもたくさん残ってるから比較のしようもないけどね。
この曲は1981年に出た初期のシングル「Wadu-Wadu」でたぶん大ヒットした代表曲。
ライブはたぶん86年くらいの映像かな(推測)。
ラテン歌謡をロックバンドがやるとこういう風になるんだろうな。ドラムやギターはもう少し違った傾向のものをやりたいのに無理してこういう路線にさせられてるように感じてしまうよ。全体的にはニュー・ウェイブというよりはもっと耳障りの良い、ROCKHURRAH的にはどうでもいい類いのシロモノ。
ヴォーカルが長髪美青年みたいなルックスでティーンの人気をさらってたのだろうと勝手に推測する。
別の時代の映像はポジパンみたいな化粧してる姿もあったので余計に見た目と音楽性のギャップがすごい。

このVirusの快進撃は続いて、デビューから1987年までは毎年アルバムが出ていたんだが、88年にヴォーカルのフェデリコ・モウラがエイズで死去、その後は弟が後を継いでヴォーカルとなったという。
まるで「タッチ」の逆みたいな感じだが、デヴィッド・ボウイの前座なども務めた事があるというからアルゼンチンではSoda Stereoと双璧をなすバンドだったんだろう。
Soda Stereoの場合は解散後だったけど、メインのヴォーカリストがいなくなった後に残されたバンドの継続というのもかなり難しい問題だろうね。
これから忘年会シーズン、年末年始を控えてるのでバンドのヴォーカリストの方は特に健康に気をつけてご自愛を。

ではまた、テゥパナンチス カマ(ケチュア語で「さようなら」)